福音書はどう七夕に似ているかー織姫と彦星の物語

機織りの女の子と牛飼いの物語(七夕として祝われている)はとても有名です。私がこの物語を聞いた時、福音書ととても似ているところがあると思いました。しかし福音書では、1年に1回という特別な日だけに愛するもの同士が再会できるということではなく、歴史の中の特別な日のため、愛するもの同士はいつも一緒にいることができます。

福音書はとても古い物語で、人々の歴史の始まりからであり、そしてそれは聖書の中で見ることができます。それは古代のもので世界的な物語でありますが、日本人の多くにはあまり馴染みがありません。似ているものと比べることで、物語を学ぶのに役立ちます。それを心にとどめ、織姫と彦星の物語を通して福音書を見てみましょう。

機織りの女のこと牛飼いの物語の要約

ウィキペディアにのっているこの馴染みのある物語を復習してみましょう。

々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

福音書の織姫と彦星

聖書は福音書の教えに沢山のイメージを使っています。神様と人々との関係示すための重要なイメージは、こども達を親の関係です。

不満や言い争いをしないで全てのことをしなさい。そしたらあなたは潔白で清く、そして歪んで曲がった時代の中の罪のない神様の子になれるでしょう。(ピリピ人への手紙2章14-15)

私たちは神様の生き写しとして作られたので、神様は私たちを星のように輝く神様のこどもとして作りました。この観念では、私たちは、星と同じように輝く天帝の娘である織姫に似ています。聖書は、ここで見られるように、神様と私たちの関係を占める他のイメージをも使っています。

若い男が若い女と結ばれるように、あなたの子らはあなたと結ばれ、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。(イサヤ62章5)

織姫が彦星と恋をするために作られたように、人々は神様との愛を経験するために作られました。しかしこの愛は、特にイエスからであり、それは福音書の主人公なのです。彼は織姫を愛した彦星のようであり、イエスの愛はこのようだと言っています。

私はこう祈ります。あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活し、すべての聖徒と共に、そのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するように。(エペソ人への手紙3章17-18)

イエス・キリストの愛はとても強いので、私たちにとって理解するのは難しいです。事実、夫と妻の愛をイメージして使われている聖書で記述されているイエスの愛なのです。

聖なる都、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見ました。(ヨハネの黙示録21章2)

最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」(ヨハネの黙示録21章9)

聖書でのイエスの肩書の一つは、「子羊」です。なので、このことは、彼の愛に帰る人々(花嫁)と子羊(イエス)とのあいだの素晴らしい結婚なのです。その状況は、織姫と彦星の間の多大な愛にとても似ています。

福音書の中の悪い出来事

Sin causes Separation between God and his love (us)
罪は私たちと神との間の分離を引き起こし

これらの詩は、福音書の物語の最後で意図された結果を示します。しかし、福音書は、私たちの現在の状況を違う形で記述しています。実際、聖書は、広大な天の川によって話された織姫と彦星のように、神様から話された私たちを描写しています。

私達は、わがままなことを行い、言うため、離されました。それはー罪、と言えます。聖書の中でそれは、悪いことを行い、言ったり考えたりする原因になつ堕落として記述されています。これは、神様の潔白から私たちを引き離します。罪の結果はこの詩によって説明されます。

ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てました。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのです。(イザヤ59章2)

Orihime & Hikoboshi can bridge their separation one day per year through good work. But this is insufficient to connect us with God
織姫と彦星は良い仕事によって毎年それらの分離1日を埋めることができます。しかし、これは神で私たちを接続するには不十分です

私たちは、織姫と彦星がお互いから離されたように、私たちの愛する者から離されています。織姫と彦星は、もし仕事を一生懸命にやるのであれば、7月の7日に会うことができます。多くの人は、それは神様と同じだと思っています。もし一生懸命働き、十分にささげ、他の人々に寛大であれば、彼らは切り離された橋から十分な功績を得るであろうと望みます。

しかし、それはうまくいきません。聖書はこう言います。

われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。(イザヤ64章6)

誰のことを話しているのか、気づいてください。それは「全て」と言っていて、悪い人や教育のない人や外国人、と言ってるのではありません。聖書を書いたイザヤも、「私たちの」と言っており、彼自身を含んでいます。彼はとても知的でありましたが、彼の正義の行動(よい功績を稼ぐためのよい行い)は汚れていました。

Jesus' death on the cross & resurrection bridges the separation between God & us
イエスは彼の死と復活によってギャップを橋かけ

神様と私たちの分離は、良い仕事をすることによって1日だけ橋を作るという織姫と彦星の分離よりも大きいのです。私たちにとって私たちと神様の分離を本当に受け入れることは難しいことです。この真実が沈むことは悲しい瞬間ですが、それは福音書の中で聖書がいっているの希望の物語に変化するこのポイントです。

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さりました。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないでしょう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるでしょう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのであります。(ローマ人への手紙5章6-8)

福音書は、そこでは終わらず、私たちにこのことを伝えることを続けました。

そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(コリント人への手紙1、15章4-5)

なぜ彼は死んだのか?

キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。(ペテロの第一の手紙3章18)

In the Gospel, the lovers are re-united for all time through the Bridge of Jesus' death
福音書では、神と人々はイエスの死の橋を介してすべての時間のために再会しています

イエスは金曜日に十字架の上で死にましたが、日曜日に再び生き返りました。彼は、私たちと神様の間の分離を埋めるためにそうしました。それは、彦星が死にかかり、織姫との分離を埋めるために再び生き返ったことに似ています。この架け橋は、1年に1回だけではなく、いつでもあるのです。福音書の結末は、聖書がこう言っています。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3-4)

Japanese calendar has used 7-day week as long as can be remembered
日本のカレンダーは、その歴史の始まり以来、7日間の週を使用しました

七夕は、日本で織姫と彦星が合うことができる日として7月7日に祝われています。イエスが金曜日に十字架にかけられ、日曜日に生き返り、そして彼は土曜日の間に死として休息しました。それが1週間なのです。1週間が7日なのは、人間の歴史の始まりに作られました。なので1週間が7日であることは、全ての文化にあり、どの国でも使われているのです。人間の歴史の始まりの週で、イエスが彼の復活の前に死の休息をする時、神様は1週間の7番目の日(土曜日)の予言として7日目に休息したのです。この今でも休息の日とされている7番目の日は、1年のうち毎日開かれている神様との架け橋のしるしなのです。

Hindu Calendar has also used 7-day week
ヒンドゥー教のカレンダーはまた、7日の週に使用しています
Thai Buddhist calendar as well
また、タイの仏教

織姫と彦星の話を通してみることは、福音書を理解するのに役立つでしょう。この二つの話の中で一つの大切な違いは、福音書は架空の話ではなく、歴史上の話なのです。イエスは本物の人間であり、生きて死に、エルサレムにあるそのお墓は空っぽであっただけでなく、人間の初めの歴史の中で、イエスの死を予言したアブラハムのいけにえ過越祭、イエスの死の詳細や復活が予言されたものという、重要な歴史の出来事を生き抜いたのです。

福音書は、この素晴らしいつながりをすべてのものに強制してはいません。それは、ギフトとして提供されています。織姫と彦星の話を学ぶことは価値があると私は思い、あなたが福音書を学ぶ機会になることを望んでいます。始めるのにふさわしいのは、「福音書はどうギフトであるのか」という項目から始めてみてください。ここから始めることは、あなたを人間の歴史のはじめに導き、年代的に続きます。それは結局、あなたのためのこの招待状と一緒に、素晴らしい結末の物語であるのです。

御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ。」また、聞く者も「きたりませ。」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(ヨハネの黙示禄22章17)

理解する価値のあるお話です。

最後のカウントダウン 最初の約束

私たちは、人類が最初に創造された状態からどのように堕落していったかを学びました。聖書は、神様が歴史の始まりに作られた約束に基づいて計画を立てたと私たちに伝えています。

聖書-それは図書館なのです

まず初めに、聖書についていくつかの真実がここにあります。聖書はたくさんの本の集合であり、沢山の著者によって書かれています。それは、初めから終わりまで全て書かれるために1500年以上もかかりました。このことは、聖書が図書館であり、他の沢山の素晴らしい本とかけ離れていることを意味しています。もし聖書がたった一人の著者や、お互いを知り合っているグループの人々から書かれたものであれば、その結束性にそんなに驚くことはないでしょう。しかし、聖書の著者らは、100年、いや1000年もの年月の違うところからきているのです。これらの著者は、違う国々出身で言葉も違い、社会的地位も異なります。しかし彼らの伝言と予言は、お互いつながっており、歴史の真実は聖書の外で記録されています。一番古い旧約聖書(イエスが生まれる前の本)のコピーは、紀元前200年からもまだ存在しています。新約聖書のコピーの存在は、西暦125年からも後に記されています。

園での福音書の約束

私たちは、どう未来を予測するかを説明している聖書の始まりを知りました。それは始まりだけれども、精神の終わりを記しています。ここに私たちは、神様が人類の堕落をあげたすぐ後に、なぞなぞとともにサタン(大蛇に扮したもの)に向かい合った時の約束を知ります。

「そして私(神)は、あなた(サタン)とその女との間、そしてあなたの子孫と女の子孫の間に憎しみを作りあげます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打つでしょう。」(創世記3章15)

あなたはこれが未来型(will)で書かれている予言だということに気づくでしょう。そこには5人の人物が触れられています。彼らは、

1;私=神様

2;あなた=大蛇、もしくはサタン

3;女

4;女の子孫

5;大蛇、もしくはサタンの子孫

その約束は、どうこれらの人物が未来で関係するのかを予言しています。これは以下で記されています。

予言で人々間の相互作用
予言で人々間の相互作用

それは、その女が誰であるかは言っていません。しかし神様は、サタンとその女が子孫を持つということを起こします。これらの子孫の間と、女とサタンの間に悪意と憎しみが存在するであろうとしています。女の子孫がサタンの頭を打つ間、サタンは女の子孫の頭を打つのです。

誰が「彼」という子孫なのか?

私たちはいくらか観測をし、そして今、結論を出そうとしています。なぜなら、女の子孫は「彼」であるので一部の可能性を取り払うことができます。その子孫が「彼女」という女性ではなく、「彼」であります。「彼」ということは、その子孫は人間であり、「それ」ではありません。その子孫は、哲学でも教えでも、政治の仕組みでも宗教でもありません。なぜならこれらはすべて、「それ」だからです。このような「それ」は、人々はいつも新しいシステムや宗教を考え出すので、堕落を修正するための私たちの好んだ選択になるものでした。神様は、心の中で、「彼」それは一人の男として考えられました。この男はサタンの頭を打つのでした。

言われていないことに気づいてください。神様は、この子孫が女からであり、男からであるとは言っていません。このことは、とてもまれです。なぜなら、聖書はほとんどいつも息子は父親からくると言っているからです。一部の人は、聖書は息子が父親からくると記録しているので、性差別的だと見ています。しかしこれは違います。ここには男からくる子孫とは約束されていません。それはただ、男からくるとは触れられず、女からその子孫はくると書かれています。

はるか後に予言者はその約束を付け加える

何百年もあと、旧約聖書の預言者は次のことを付け加えました。

神様自身はあなたにサインを与えるでしょう。見てください。乙女がみごもって男の子を産みます。その名はインマヌエル(神様は私たちのそばにいなさる、という意味)と名付けられるでしょう。(イザヤ7章14、紀元前750年)

イザヤの700年以上も後、イエスは乙女から産まれました。(新約聖書による)イザヤの預言通りです。しかしイエスは人間の歴史の始まりとともにこんなに早く予言されているのでしょうか?このことは、その子孫が「彼女」でも「彼ら」でも「それ」でもない「彼」であることに当を得ています。その観点から、もしあなたがそのなぞなぞを読むと、納得できるでしょう。

「彼のかかとを打つ」??

しかし「サタンが彼のかかとを打つ」とはどういう意味なのでしょうか?1年間、私はカメルーンのジャングルで働いたことがあります。私たちは蒸し暑い中、厚いゴムでできたブーツをはかなければいけませんでした。なぜならば、蛇が長い草に横たわっていって、足を攻撃するからです。そして死にます。そのジャングルでの経験は、そのことを納得させました。その「彼」は、大蛇であるサタンを破滅さますが、彼はその過程で死にます。それは、勝利がイエスの犠牲を通して達することを予示しています。

「その女」-2つの意味

そして、もしこの初めの約束が、イエスに関することであれば、その女は、イエスを産んだ乙女の女ということになります。それは、マリアです。しかしそれには2つの意味があります。他の旧約聖書の予言がイスラエルについて言及していることに気づいてください。

ああ、イスラエル。私はあなたを永遠に妻とします。私はあなたに忠実で、私のものとし、そしてあなたはついに私を主君として受け入れるでしょう。(ホセア2章17-20.紀元前800年)

聖書の中では、イスラエルは、女、つまり神様の妻としてみなされています。そして、聖書の最後では、この女が、敵を通して戦わなければいけない闘いを説明しています。

私は頭に12の星をつけた冠をかぶっている女を見ました。彼女は妊娠しており、その出産とその激しい痛みで叫んでいました。

そして私は、ちょうど出産をするところであったその女の目の前に、大きな赤い竜を見ました。そしてその竜は、生まれると同時にその赤ちゃんを食べる準備をしていました。

彼女は、鉄の竿で全ての民族を規則するであろう息子を産みました。

この巨大な竜ー古代の蛇は、悪魔やサタンと呼ばれ、世界中を陥れるものでしたーそれはすべての彼の天使たちと一緒に地球上に投げおろされました。

その竜は地球上に投げおろされた時、その男の子どもを産んだ女を追い求めました。そしてその竜は、女に怒り、女の子孫に対して戦争を宣言しました。(ヨハネの黙示録12章1-17、西暦90年)

イエスがユダヤ人であってから、「女」であるマリアと同時に「女」であるイスラエルの子孫なのです。その約束は、両方のやり方で実現しました。古代の蛇は「女」であるイスラエルに敵意を持ち、そしてその女に戦争を宣言しました。このことは、ユダヤ人が長い歴史の中で苦しんできた変わった苦悩を表します。そしてそれは始まりを予告しているのです。

大蛇の子孫?

しかしこのサタンの子孫とは、誰なのでしょうか?私たちには、詳細を明らかにするための場所がありません。しかし、いくつかのページと聖書の最後のほうでは、創世記での約束の何千年ものあとで、来る者として予告されています。ここに記述があります。

あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びるに至るでしょう。地球に住む者のうち、世界の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣を見た時、驚くであろう。なぜならば、その野獣は昔はいたが今はおらず、やがて来るからです。ここに、知恵のある心が必要でなのです。(ヨハネの黙示録17章8-9)

このことは、その女の子孫と、サタンの子孫の間での戦いを示しています。しかしそれは、後に沢山の詳細とともに、聖書の一番初めである創世記の約束のなかで言及されています。サタンと神様の間での最後の競争までのカウントダウンは、ずっと昔の園で始まりました。そのことは、歴史は本当に彼の物語であると思わせることでしょう。

シンプル&力強い イエスの犠牲とはどういう意味か?

私たちが堕落から逃れ、神様に再びつながるため、イエスは私たちすべての人間のために犠牲として自分自身をささげました。この出来事は、人間の歴史の始まりに記させています。イエスの犠牲が行われた場所であるモリヤの山を指し示すことによって、アブラハムの犠牲の中に神様によって指示されました。そして、ユダヤ人の過越祭の犠牲は、イエスが犠牲となった時のその年の日を指し示すサインでした。

なぜ彼の犠牲はそんなに大切なのでしょう?これは質問するに価値のあるものです。聖書はそれが述べられるとき、神の教えを宣言しました。

罪の報いは死である。。。(ローマ人への手紙6章 23)

「死」という意味は、文字通り「分離」という意味です。私たちの魂が体から分離する時、私たちは肉体的に死にます。それと同じく、私たちは精神的に神様からもまた分離しています。これは真実です。なぜなら神様は神聖であるが、私たちは最初の創造物ら堕落し、そして私たちもであるからです。

このことは、底知れない穴によって分離された私たちから、反対側の崖の上にいる神様、という図で表すことができます。それはちょうど、木から切られた枝が死んでしまうのと同じです。私たちは神様から切り落とされ、精神的に死んでいるのです。

私たちは二つの崖で分離されている裂け目のような罪によって神様から分離しています。
私たちは二つの崖で分離されている裂け目のような罪によって神様から分離しています。

この分離は罪悪感と恐怖感の原因になります。だから私たちが自然に行おうとすることは、私たちの場所(死)から神様の場所まで橋をつなごうとします。私たちはこれをいろんな方法で行います;例えば、教会や神社、寺院に行ったり、宗教信者になったり、良い人になったり、貧乏人を助け、瞑想したり、もっと助けようとしたりお祈りしたり…功績を増やすためのこのような行為は、とても難しいです。そしてそれをやり抜くのはとても複雑です。このことは、次の形で説明されます。

いい努力ー多分役に立つでしょうーしかし神様と私たちの分離に橋を架けることはできません
いい努力ー多分役に立つでしょうーしかし神様と私たちの分離に橋を架けることはできません

問題は、私たちの熱心な努力や功績、行動は間違ってはいないけれど、それは不十分なのです。なぜなら、私たち罪のためのに要求される報酬は、「死」であるからです。私たちの努力は、神様から分離された私たちの溝をつなごうとする「橋」のようなものなのです。しかし最終的にはつながらないのです。いい功績は根本的な問題を解いてはいないからです。それは、ベジタリアンフードを食べることで癌(死の原因)を克服しようとしていることと同じです。ベジタリアンフードを食べることは悪いことではありません、むしろいいことでしょう。しかし、それは癌を克服はしません。癌には、全く異なった治療法が必要なのです。

この神様の教えは、悪いニュースです。私たちはそれを聞きたくはありませんし、この教えがなくなるように活動したり望んだりします。しかし聖書はこの罪の教え、シンプル で力強い解決策に集中するため、私たちの注意を引くための死を強調します。

罪の報酬は死である、しかし、、、(ローマ人への手紙 6章23)

メッセージの支持を示しているこの小さな言葉である「しかし」は、福音書の良い知らせー解決策 でまさにその方向を変えようとしています。それは、神様の愛と有徳を表しています。

罪の報酬は死であるが、神様の贈り物は私たちの主であるイエス・キリストにおける永遠の命である。(ローマ人への手紙6章23)

イエスの犠牲である良い知らせは、私たちと神様を分離する架け橋をするのに十分であります。私たちはこのことを知っています。なぜなら、彼の死の3日後、イエスは肉体的に甦りました。ほとんどの人々は、この復活の証拠を知りません。とても強い真実が、私が大学で行った講義で示されています。(ビデオのリンクはここ-English)イエスの犠牲は予言的にアブラハムの犠牲と過越祭の中に表されています。イエスを示しているこのようなサインは、解決策を見つける手助けをするためにあるのです。

イエスは罪のない人生を送った人間です。それ故に、彼は人間と神の両側を「触る」ことができ、神様と人間との間の分離を埋めることができます。彼は以下にに示されるような、人生の架け橋なのです。

イエスは、神様と人間の間の裂け目をつなぐ橋である
イエスは、神様と人間の間の裂け目をつなぐ橋である

このイエスの犠牲がどのようにして私たちに与えられたか気づいてください。それは、「ギフト」として提供されました。「ギフト」について考えてください。それがどんなものであれ、本当に「ギフト」なのであれば、それは何か仕事をして得るものでもなく、功績によって稼ぐものでもないのです。もしあなたがそれを稼ぐのであれば、それはもはや「ギフト」ではなくなります。それは給料です。同じく、あなたはイエスの犠牲に値したり稼いだりはできないのです。それは私たちに「ギフト」として与えられるのです。とてもシンプルです。

そして、「ギフト」とは何ですか?それは、「永遠の命」です。その意味は、私たちの与えられた罪の死は今取り消されました。イエスの人生の架け橋が永遠に続く人生を受け取り再び神様につながることを可能にします。神様はあなたと私をそれほど愛しているのです。それはとても力強いのです。

では、どのように私たちはその人生の橋を渡るのでしょうか?もう一度、「ギフト」を思い出してください。もし誰かがあなたに「ギフト」を渡したいなら、あなたはそれを「受け取る」べきなのです。いつも「ギフト」には二つの選択があります。ギフトを断る(いいえ、いりません)か、受け取る(ギフトをありがとう。受け取ります)かです。そしてこの提供されたギフトは受け取られるべきなのです。それは、ただ精神的に信じるのでも、勉強したり理解したりすることではありません。このことは、神様が私たちに与えたギフトを受け取り、神様に向かう橋を「歩く」様子を描いた次の図で示されます。

イエスの犠牲は私たちすべてが受け取るべきであるギフトである
イエスの犠牲は私たちすべてが受け取るべきであるギフトである

そしてどのように私たちはこのギフトを受け取ればいいのでしょう?聖書はこう言っています。

主の名を呼び求めるものすべてのものは報われる。(ローマ人への手紙 10章 13)

この約束は「すべてのもの」ということに気づいてください。イエスが死から甦ってから彼は今でも生きており、「主」なのです。もしあなたが彼を呼び求めると、彼はそれを聞き、あなたにギフトをもっと与えるでしょう。あなたは彼を呼び、彼と会話をすることで聞きます。たぶんあなたは今までにこのようなことをしたことがないでしょう。下にあるものは、あなたを導くお祈りです。それはマジックのおまじないではありません。それは力を与える特別な言葉でもありません。それは、私たちがこのギフトを受け取るために置き換えられたアブラハムの行ったような信用です。私たちが彼を信じれば、彼は私たちを聞き、それに答えます。良い知らせは力強く、そしてシンプルです。もし役に立つと思ったら、このガイドに従ってみてください。

主であるイエス様。私は神様から分離した罪を理解します。私は最善を尽くすことができますが、努力や犠牲はこの分離を埋めることはできません。しかしあなたの犠牲が私たちすべての人間のための罪を消し去るものであることを理解しています。あなたの犠牲のあと、あなたが甦ったことを信じ、あなたの犠牲は十分なものであることを知っています。私は神様に届き、罪から洗われることを受け取ります。私は罪のとりこになる人生はいりません。どうか罪から解放してください。ありがとうございます。私のためにすべてのことをしてくださり、私の人生を導き続ける主、イエス様。なので私はあなたを主として従うことができま

す。

アーメン

堕落(2部)、、、そして的から外れる

聖書は、神様が私たちを作られた姿から、堕落を説明しています。これはどのようにして起こったのでしょうか?それは、聖書の創世記に記されています。神様の生き写しとして作られた、最初の人間(アダムとイブ)が作られた後すぐに、選択することによって試されました。聖書は、大蛇とともに、彼らの会話を表しています。その大蛇はいつも、神様の敵であるサタンのよき理解者として知られています。聖書では、サタンはいつも誰かを通じて話します。ここでは彼はその大蛇を通して話しています。

神様が造られた野生の生き物のうちで、大蛇が最も悪賢いのでありました。ある日大蛇は女に言いました。「園にあるどの木からもその実を取って食べるなと、本当に神様が言われたのですか?」

女は大蛇に言いました。「もちろん私たちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、食べることが許されてはいません。「これを取って食べたり、ましてやこれに触れてはいけません。もしそうしたら、あなたは死んでしまうでしょう。」と神様は言われました。」

大蛇は女に言いました。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神様のように善悪を知る者となることを、神様は知っておられるのです。」

その女は、説得させられました。彼女がその木を見ると、それは美しくおいしそうで、賢くなるには好ましいと思いました。そして彼女はその実を取って食べ、また共にいた夫にも与え、彼もまた食べたのです。その瞬間彼らの目は開き、急に裸でいることが恥ずかしく思えたのです。なので彼らは体を隠すためにいちじくの葉を縫いまといました。(創世記3章1-6)

彼らの選択(そして誘惑)は、「神様のようになれる」ということでした。ここまでは、彼らはすべてにおいて神様を信用しましたが、しかし今は、自分自身と自分で作りあげた神を信じるために、「神様のように」なることを選んだのです。

独立するための彼らの選択は、彼らを変えました。彼らは恥ずかしく思い、身をまとおうとしました。神様がアダムに向かい合った時、彼はイブ(そして神様が彼女を作られた)のせいにしました。彼女は大蛇のせいにしました。誰もその責任を取ろうとはしませんでした。

その日から何が始まったのか、それは続いています。なぜならば、私たちは自立した創造物を受け継いでいるからです。一部の人は、聖書を誤解し、私たちはアダムの間違った選択をとがめます。とがめられているのはアダムだけですが、私たちは彼の選択の結果の中に生きているのです。私たちは今、このアダムの自立した創造物を受け継いでいます。私たちは宇宙の神様になろうとは思っていないかもしれませんが、私たちの設定した神様になりたいのです。でもそれは、神様からかけ離れています。

このことは、人間の人生をとてもよく説明しています。私たちはドアに鍵をかけ、警察が必要で、パソコンにはパスワードがあります。それは、そうでもしないとお互い盗みあうからです。これが、なぜ社会はついに堕落するかなのです。なぜなら、文化は崩れ落ちる傾向にあるからです。これが、なぜ一部の人は他の人より一生懸命働いても、すべての政府や経済の組織が崩壊するのかなのです。 私たちがこうあることは、そうであるべきことを私たちから見落とさせるのです。

「見落とす」という言葉は、私たちの状況を要約しています。聖書の韻文からは、このことを理解するためのいい模倣があります。

このすべての兵士のうちに左ききの兵士が七百人いて、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。(士師記20章16)

このことは、投石にたけている兵士は決して的を外すことはなかったと説明しています。ヘブライ語では、この「外す」という言葉を、חטאと翻訳しています。それは、旧約聖書では、「罪」とも翻訳されています。

兵士は石を使い、的を狙うためにそれを打ちます。もし彼が逃してしまえば、その目的を失ってしまいます。それと同じように、私たちはどのようにして神様に近づくか、そして他の人々を待遇するかという的を撃つために、神様の生き写しとして作られました。罪を犯すことは、その目的、そして的を外すということであり、それは私たちを意図しています。

的を外すということは、不幸せや楽天的ということではありません。人々は時々、罪においての聖書の教えに強く反対します。ある大学生が私に、「私は聖書を信じません、なぜなら、ここに書いてあることが好きではないからです。」と言いました。しかし、何か好きではないことを真実として行わなければならないことは何ですか?私は、税金や戦争、地震が好きではありません。誰もがそうです。しかしそのことは、それを嘘であるようにはしません。私たちはそれ全てを無視することができません。お互いから守るため社会に作られた全ての法律や警察、ドアの鍵、そしてセキュリティーは、何か間違っているということを暗示しています。少なくとも、私たちの罪における聖書の教えは、偏見なく考えられるべきなのです。

私たちには問題があります。私たちは初めに作られた時から堕落しており、道徳のある行いを逃しています。しかし神様は、私たちのこの無力から見捨てたりはしませんでした。彼は私たちを救う計画をし、なのでゴスペルとい意味は、文字通り「よい知らせ」という意味なのです。なぜなら、この計画は、神様が私たちを救うという良い知らせなのです。神様は、この知らせを公表するのにアブラハムまで待ちませんでした。彼はアダムとイブとの会話で初めの良い知らせを公表しています。私たちは次に、初めの良い知らせを知ります。

しかし堕落した、、中世の地球のように

以前私たちは、人々が神様の生き写しとして創造されたと聖書に書いてあることに出くわしました。このことは、なぜ人間の人生が貴重なものであるかを説明しています。しかし聖書は、重大な問題を説明するために、人類創造から引き続きます。その問題は、聖書の中の詩篇(歌)で見られます。

神様は、もしそこに誰か神を理解し神を探し求めるものがいるかを見るために、天国から人々を見下ろしました。すべての人々はわきへ逸れ、人々は堕落しました。そこには、たったひとりもいいことをする人がいなかったのです。(詩篇14章2-3)

これは、私たち「全て」が「堕落」したと言っています。私たちは神様の生き写しとして作られましたが、何かが私たちの中で破壊したのです。堕落は、神様からの独立として選ばれた中(全ての人々は、神様を探し求めることから逸れました)に見られます。そしてそれはいいことをしていません。

エルフとオークを考える

オークは各面で醜いが、基本的にはエルフが堕落したものである。
オークは各面で醜いが、基本的にはエルフが堕落したものである。

これを理解するために、映画ロード・オブ・ザ・リングのオークとエルフを見比べてみてください。オークは醜く、悪魔です。エルフは美しくて、平和的です(レゴラスを見てください)。しかしオークは、以前サウロンが過去に堕落したエルフだったのです。オークの中の最初のエルフの姿は、破壊されました。似たような形で、聖書は人々が堕落したと伝えています。神様はエルフを作りましたが、私たちはオークになったのです。

レゴラスのようなエルフは、高潔で壮麗でした。
レゴラスのようなエルフは、高潔で壮麗でした。

例えば私たちは、善悪の行動を知っています。しかし私たちは、何を知っているのかによって生きてはいません。それは、パソコンの正しい機能を破壊するウイルスと同じなのです。私たちの道徳的な規約はそこにあります。しかしウイルスがそれを汚染しているのです。これは、私たちが私たち自身を注意して見守ることに値します。しかしそれは質問を促しま

す。なぜ神様は、このように私たちを創造したのでしょうか?私たちは、善悪がそこから堕落したことを知っています。無神論者のクリストファー・ヒッチンズはこう批判します。

もし神様が人々をそのような考え(堕落)から自由にしたかったのであれば、彼はもっと異なった人種を作りだすべきだっただろう。(クリストファー・ヒッチンズ ”神は偉大ではない;宗教がすべてを壊した”p100)

しかし彼は何かとても大切なことを見逃しています。聖書は、神様がこのように私たちを作ったとはいっていなく、私たちが作られた後に、何か恐ろしいことが起こったのだといっています。初めに作られた人間が神様に背き、それによって彼らは変わり、堕落したのです。

人類の脱落

これは、よく「脱落」と呼ばれています。初めの人種であるアダムは、神様によって作られました。神様とアダムの間には、忠実な婚約のような契約がありました。そしてアダムはそれを破りました。聖書には、アダムが食べてはいけないと言われていたにもかかわらず、善悪を知る木からその実を食べたと書いてあります。その契約とその木自体は、アダムに神様に対して忠実のままでいるのかどうかという選択肢を与えました。アダムは、神様の生き写しとして創造され、神様との友情関係も置かれました。しかしアダムは彼の創造において選択肢はなかったので、神様はご自分との友情関係を選ぶことを許されました。それは、もし座ることができないから、立つことを選択するということが正しくはないのと同じです。(座ることができないから、残された選択である”立つ”ということを選ぶことは、そのほかに選択肢がないから選んでいるだけであって、決して正しい選択だとは言えないのです)アダムと神様との友情関係と信頼は、選ばれるべきだったのです。この選択は、一つの木から食べてはいけないという命令に集中しました。そしてアダムは背くことを選んだのです。アダムが背いたことは、私たちすべての世代を通してとめどなく続き、今日の私たちにもつながっています。それがどういうことなのか、次をみてみましょう。

神様の生き写しとして作られた

私たちがどこから来たのかを理解するために、聖書から学ぶことができるでしょうか?多くの人は「いいえ」と言いますが、聖書が伝えることの観点から、私たちについて納得のできることが書いてあります。例えば、聖書が私たちの原点について伝えていることを考えてみてください。初めの章ではこう言っています。

そして神様は言いました。「人間を私たちの生き写しとして作りましょう。」そして神様は、人間を神様自身の生き写しとして創造しました。神様は、男と女、彼らを作りました。(創世記1章26-27)

「神様の生き写し」

人類は、神様の生き写しとして作られたということは、どういう意味なのでしょうか?それは、神様は2つの腕と1つの頭があるということを意味しているのではありません。しかしそれは、私たちの基本的な特性は神様からきているということを意味しています。聖書では、神様は悲しんだり怒ったり、喜びに満ちたり、私たちが持っているものと同じ感情を持っています。私たちは、毎日決断したり選択をしたりします。神様もまた、決断したり選択をしたりします。私たちは考えることができ、神様もまたそうなのです。神様の生き写しということは、私たちが精神や感情、そして意思を持っているということなのです。なぜならば、神様が精神や感情、そして意思を持ち、このように神様に似せて私たちを創造したからなのです。神様が私たちの中にある源なのです。

私たちは「私」と「あなた」に関して自覚があります。私たちは「それ」という非人称ではありません。神様がこのようであるので、私たちはこうであるのです。聖書の中の神様は、映画スターウォーズにでてくる「パワー」のような非人称ではなく、私たちもまたそうではないのです。なぜならば、私たちは神様の生き写しだからです。

なぜ私たちは美を好むのか?

私たちもまた芸術、演劇や美を評価します。私たちは、音楽や本といった美を周りに必要とします。音楽は、私たちの生活を豊かにし、心踊らせます。私たちはよい物語を好みます。なぜならば、物語にはヒーローや悪者、劇的な物語があり、そして素晴らしい物語は、このようなヒーローや悪者、劇的な物語を私たちの想像の中に引き込むからなのです。私たちは芸術を楽しみ、くつろいだりリフレッシュするのに取り入れます。それは神様が芸術家であり私たちは神様の生き写しであるからなのです。それは、質問するに価値のあるものです。「なぜ私たちは芸術の美や、演劇や音楽、ダンス、自然や文学を追求するのでしょうか?」無神論者であり脳開発の権威者であるダニエル・デネットは、非聖書の観点からこういっています。

「しかし、この研究のほとんどは未だに音楽を当然のことと思っています。それはほとんど ”なぜ音楽が存在するのか” と、こう尋ねません。そこには短い答えがあり、それは本当なのです。今のところ、音楽は存在します。なぜなら、私たちは音楽を愛し、それゆえに私たちは音楽を、存在の中に持ち続けます。しかし、なぜ私たちは音楽を愛すのでしょう?それは、私たちは音楽が美しいとみなしているからです。しかしなぜ音楽は私たちにとって美しいのでしょう?これは、完全な素晴らしい生物学的な質問です。しかしそれはまだいい答えではありません。」(ダニエル・デニット 解明される宗教──進化論的アプローチ p43)

神様から離れると、なぜすべての芸術の様態は私たちにとって大切なのか、という明確な答えはありません。聖書の観点からすると、それは、神様がものを美しくし、美を楽しむことを作られたからなのです。私たち神様の生き写しは、同じなのです。この聖書的教えは、私たちの芸術に対する愛を理解しているのです。

なぜ私たちは道徳的なのでしょうか

神様の生き写しであることは、私たちの道徳的な能力を説明しています。私たちは、言葉や言語は違っていても、何が「間違っている」行動で何が「正しい」行動なのかを理解しています。道徳上の筋道は私たちの中にあります。有名な無神論者であるリチャード・ドーキンスはこう言っています。

「私たちの道徳上の判断の営みは、普遍的な道徳上の決まりです。言葉にすれば、私たちの道徳上の基本を作る原理は、私たちの意識から目立たないように活動しています。」(リチャード・ドーキンス ”神は妄想である” p223)

ドーキンスは、私たちの善悪の意識は、言葉を持つための私たちの能力のように私たちの中に作りあげられます、と説明しています。しかし、なぜ私たちはこれがたった身体的な源からくるのかを説明することが、彼にとって難しいのです。神様が私たちに道徳上の羅針盤をくださったことを理解しないと、誤解が生まれます。他の有名な無神論者であるサム・ハリスの議論を例えてみましょう。

「もしあなたが宗教の信念が本当の道徳上の基本を提供するということを信じることが正しいとするならば、無神論者は信者より道徳がないことでしょう。」(サム・ハリス ”キリスト教 科学教育” p38-39)

ハリスは誤解しています。聖書によると、私たちの道徳上の良識は、信者からではなく神様の生き写しからくるのであります。なので無神論者は、私たちと同じく、この道徳上の良識を持ち、道徳的に行動できるのです。無神論者は、なぜ私たちはこのようであるのか理解していません。

なぜ私たちはこんなに関係があるのか

聖書的には、私たちを理解する初めの地点は、私たちが神様の生き写しであるということに気づくことです。人々が、絆を置くことの大切さに気付くことは、難しいことではありません。いい映画をみることはいいですが、友達と見るともっといいでしょう。私たちは経験を共有したり、健康を向上させるために、家族や友達を探し求めます。対照的に、寂しさや壊れた家族関係は、私たちにとってストレスになります。もし私たちが神様の生き写しであるならば、神様と一緒にこの重要性を見つけ出すことに期待するでしょう。そして私たちはそうであります。聖書はこういっています。「神様は愛である。(1ヨハネ4章8)聖書には、神様は私たちの愛を彼と他の人々のために定めたという重要性について、多く書かれています。それらは、聖書の中で2つの最も重要な統率であるイエスによって呼ばれています。あなたがそれを考える時、愛は少なくとも二人の間で起こる関係であるべきでしょう。

なので、私たちは、神様は、愛する人と考えるべきでしょう。もし私達が神様を慈悲深いものであるとみなすならば、それは、聖書的な神様ではないのです。むしろそれは、私たちが私たちの中に作り上げた神様なのです。神様がそれであっても、神様はまた人間関係においても情熱的であります。神様は愛を「もっている」のではありません。神様が、「愛」なのです。神様と人間との関係の状況で、聖書上最も重要な関係は、父と子、そして主人と妻の関係なのです。それらは遠い関係ではなく、深く根本的な人間関係なのです。聖書は神様はこのようであると言っています。

ここに、私たちがこれまでに学んだことがあります。人々は、精神であり、感情、そして意志を持つ神様の生き写しであります。私たちは、自分や他人に気づいています。私たちは、善悪の違いを理解しています。すべての形の中に、美や演劇、芸術や物語に感謝し、そして他の人との友情関係や人間関係を向上させ、探し求めるでしょう。私たちはすべてこうであります、なぜならば、神様がこうであり、私たちは神様の生き写しであるからです。次に、なぜ私たちの人間関係はいつもがっかりさせ、なぜ神様は遠い存在に感じるのかを説明している聖書を学びます。なぜ私たちの深い願望は決して満たされないように思われるのでしょうか。

アブラハム:どのように神様は、神社(杜 , 大社)の場所を記すことで与えるのでしょう

アブラハムは、現代でいうイスラエルを旅しながら、4000年も前に住んでいました。彼は、偉大な民族になるであろう子孫を約束されましたが、彼は彼の子孫の誕生に出会うため、とても歳をとるまで待たなければいけませんでした。今日のユダヤ人やアラブ人は、アブラハムの子孫であり、私たちはその約束が果たされ、彼は偉大な民族の父として歴史の中で大切な人物だということを知りました。

アブラハムは、彼の息子であるイサックの成長を見ることがとても幸せでした。しかし、神様は、アブラハムを素晴らしい方法で試しました。このことは、すべての国民がいつか神様を礼拝するであろう場所である神社を位置するでしょう。神様はこう言いました。

「あなたの一人息子であるイサックを連れて来なさい。あなたが心から愛するその息子を。彼をモリヤへ連れて行き、イサックを私の捧げものとして焼き殺しなさい。」(創世記22章2)

このことは、理解しがたいです。なぜ神様はこうするようにアブラハムに言ったのでしょうか?神様を信用することを学んだアブラハムでさえ、そのことを理解できませんでした。

そして次の日の朝早く起きて、イサックと二人の使用人を連れ、神様が伝えた場所に向かいました。(創世記22章:3)

そして3日後、彼らはその「杜」へたどり着きました。そして

、、、彼らは神様から伝えられた場所にたどり着いた時、アブラハムは祭壇を作り、その上に薪を置きました。そして、彼は息子をしばりつけ、息子を薪の上に置きました。彼はナイフを手に取り、息子を殺す準備をしました。(創世記22章:9-10)

アブラハムは、神様に従う準備をしました。そしてちょうどその時、注目すべきことが起こりました。

しかし、神様の天使が天国からこう叫びました。「アブラハム!アブラハム!」

「私はここにいます。」アブラハムは答えました。

「その男の子をどんなやり方でも傷つけたり、痛めつけたりしてはいけません。」と天使は言いました。「今私は、あなたが本当に神様に従うのかわかりました。なぜならば、あなたは神様にたったひとりの息子を差し伸べようとしたからです。」

アブラハムがふと見上げると、木々の中に角を絡ませて動けないでいる雄羊を見つけました。そして彼は雄羊を捕まえ、彼の息子の代わりに雄羊をいけにえにしました。(創世記22章:11-13)

その最後の瞬間、イサックは死から逃れ、アブラハムは雄羊を見つけ、その代わりに雄羊をいけにえにしました。その雄羊は、イサックの身代わりになりました。この場所は、神様が存在し、そこでイサックのために提供したので、神聖な場所でした。

ここで、質問があります。この物語のこの時点では、その雄羊は死んでいるでしょうか、それとも生きているのでしょうか?

なぜそのように質問するのでしょうか?なぜならば、アブラハムがその場所に名前を付けようとするからです。しかし、ほとんどの人は、その大切さを逃しています。その物語は続きます。

アブラハムは、その場所を「神様のその山の上で与えられる」と名付けました。そして今でも人々は、「神様のその山の上で与えられる」と言っています。(創世記22章:14)

ほかの質問;アブラハムが名付けた場所「神様は与えてくださるだろう」は、過去、現在、それとも未来の文型でしょうか?

過去ではなく、未来に向けて

それは、確実に未来の文型です。多くの人々は、アブラハムがその神聖な場所を名付けた時、やぶに絡まった雄羊のことを考え、イサックの代わりにいけにえにしたと考えています。しかし、アブラハムがそこを名付けた時はもうすでに雄羊は死んでいて、いけにえにされていました。もしアブラハムがその、もうすでに死んでいていけにえにされた雄羊を考えていたのであれば、彼はその場所を、過去の文型である「神様は与えてくださった」と名付けたでしょう。そしてその次のコメントは、「そして今でも人々は、「神様のその山で与えられた」」となったでしょう。しかしその名前は、過去ではなく、未来を示しています。アブラハムは、もうすでに死んでいる雄羊を考えていたのではありません。彼は、その場所を、未来の別なこととして名付けているのです。しかし、それは何なのでしょうか?

それはどこなのでしょう?

このいけにえが起こったのは、どこか覚えておいてください。その物語のはじめでこう話されています。

「イサックを連れて行きなさい。彼を、モリヤの地に連れて行きなさい」

これは、モリヤで起こりました。それはどこなのでしょう?それは、アブラハムの時代(紀元前2000年)では、木々や野生の羊がいる荒地であり、アブラハムとイサックはその山にいました。しかし1000年後(紀元前1000年)そこに、デビット王はエルサレムの地を作り、そして彼の息子であるソロモンは、そこに初代のユダヤ教のお寺を作りました。(日本でいう大社)私たちは、旧約聖書のなかでこう学びます。

そして、ソロモンは、モリヤの山でエルサレムの神様であるお寺を建て始めました。(歴代志2、3章1)

モリヤの山は、ユダヤ教のお寺のあるユダヤ人の町である、エルサレムになりました。今日では、そこはユダヤ人にとって聖地であり、エルサレムは、イスラエルの首都であります。

アブラハムの犠牲とイエス

イエスの肩書について、少し考えてみましょう。一番よく知られているのは、「キリスト」でしょう。しかし、彼には他にも肩書があります。

その次の日、ジョンはイエスが彼に向ってくるのを見て、こう言いました。「見てください、世界から罪を取り除く”神の子羊”」(ヨハネ1章 29)

イエスは「神の子羊」とも呼ばれていました。イエスの最後の人生を考えてみてください。どこで捕らえられ、どこで十字架にかけられたのでしょう?それは、エルサレム(モリヤの山と同じ)でありました。それはとても明白でした。

彼(ピラト)はイエスがヘデロの支配下の元にあると知りました。ヘデロはその頃、エルサレムにいたので、ピラトはイエスを彼に送りました。(ルーク23章7)

その逮捕、審判とイエスの死は、エルサレム(モリヤの山)で行われました。そのタイムラインはモリヤの山で起こった出来事を表しています。

mount moriah timeline Japanese
モリヤの森で行われた、主な出来事の歴史的なタイムライン

アブラハムに戻ってみましょう。なぜ、彼はその場所を未来型である「神は与えるでしょう」と名付けたのでしょうか?イサックは、雄羊が彼のいた場所でいけにえにされた最後の瞬間で助けられました。2000年後、イエスは「神の子羊」と呼ばれ、彼は同じ場所でいけにえにされました。なのであなたと私もまた、生きることができたのです。

神聖な計画

それは、2000年の歴史によって分けられた、これらの二つの出来事とつながっている精神のようなものです。何がそのつながりを特有なものにしているかは、初めの出来事が、未来系で名付けられたことによって後の出来事を示していることです。しかし、どのようにしてアブラハムは、未来に起こることがわかったのでしょうか?どんな人間も未来をわかりません。特に、遥か遠い未来のことは。神様だけが知ることができるのです。未来を予測することと、これらの出来事が同じ場所で起こったことは、これが人間の計画ではなく、神様の計画であることを証明しています。神様は、私たちに、これを以下で示すように考えてほしいのです。

mount moriah thinking Japanese
モリヤの山でのアブラハムのいけにえは、イエスのいけにえを示すサインなのです。

神社は聖地として考えられました。なぜなら、何か神聖なことが過去にその場所で起こったからです。しかし神聖なモリヤの山は他の神社とは異なる、未来を予測した神社になりました。そしてその時、神の子羊であるイエスはアブラハムが予感した神聖な場所と同じ場所でいけにえとして自分自身をささげました。

すべての民族のためのよい知らせ

この物語には、あなたのためにもまた約束があるのです。この物語の最後に、神様はアブラハムにこう約束しました。

「地球上のあなたの子孫である民族を通して祝福されるでしょう。なぜならば、あなたは私に従ったからです。」(創世記22章18)

神社は、たった一つの民族のみのために作られました。例えば、伊勢神宮は日本人のためのものです。しかしアブラハムが記した神社は、すべての民族のためにあるのです。日本人も、ユダヤ人や中国人、韓国人やアラブ人と同じく含まれています。

それでは、この「祝福」とは何なのでしょうか?どのようにして手に入れるのでしょうか?その物語を考えてみてください。雄羊がイサックを死から救ったように、神の子羊であるイエスは、同じ場所で彼のいけにえによって死の力から私たちを救うのです。もしそれが本当なのであれば、間違いなくよい知らせになるでしょう。

モリヤの山でのアブラハムのいけにえは、古代歴史の中で大事な出来事であり、すべての民族のための神社として記されました。それは、今日での世界中の何億もの人々から記憶され、祝賀されているのです。そしてそれは、4000年後に暮らしているあなたのための物語でもあるのです。

正義を得ること アブラハムの例

以前、私たちはただ信じることによって正義を手に入れたアブラハムのことを知りました。このことは、短い文章に書かれています。

アブラハムは神様を信じ、そして神様はアブラハムに正義を与えました。(創世記15章:6)

信じることとは、神様の存在についてではない

「信じること」とは、どういうことなのか、考えてみてください。多くの人は、「信じること」とは、神様が存在するということだと思っています。私たちは、神様が、そこに存在するということを信じてほしいと思っています。しかし、聖書はそれとは違うことを言っています。それはこう言っています。

あなたは、神様が存在すると信じています。それはいいことです!悪魔さえもそれを信じているのですから。…ぞっとします。(ジェイムス2章:19)

ここに、聖書は単に神様の存在を信じることは、私たちが悪魔と同じであると、皮肉っています。アブラハムが神様の存在を信じたことは真実ですが、しかしそれは彼の正義の重点ではありません。神様は、アブラハムに息子を与えると約束しました。それは、アブラハムが、信じるか信じないかを選ばなければいけなかったものなのです。たとえ彼が80代で、彼の妻が70代であったとしても、彼は知っていたのです。彼は、神様が何らかの方法で約束を果たすだろうと信じていました。信じること、この話の中では、「信用すること」なのです。アブラハムは、子孫を得るために、神様を信用することを選びました。

アブラハムが約束された子孫を信じることを選んだ時、神様は彼にもまた与えました。それは正義でした。最後には、アブラハムは、偉大な民族と正義という両方の実現を手に入れたのです。

「正義」ー功労や努力ではない

アブラハムは、正義を”稼ぎ”はしませんでした。それは彼に”与えられた”のです。何が違うのでしょう?もし、”稼ぐ”のであれば、あなたはそのために働かなければいけません。あなたはそれを受けるに値します。それは、あなたが働くことで受け取る、給料のようなものです。しかし、もし何かがあなたに”与えられる”のであれば、それは、あなたに与えられるのです。それは、稼いだり功労したりすることではなく、単に受け取ることなのです。

私たちは、悪いことよりも良いことをしたり、責務を果たすことで、私たちが正義を受け取る価値があるとみなしています。アブラハムは、この考えが間違っていると証明していま

す。彼は、正義を稼ごうとはしませんでした。彼はただ彼に与えられた約束を信じることを選び、そして彼に正義が与えられたのです。

アブラハムの信念:人生への賭け

子孫への約束を信じることを選ぶことは、単純ではあるが、決して簡単ではありませんでした。彼が初めの約束「偉大な民族」を約束されたとき、彼は75歳であり、彼は自分の国を去り、カナンへ旅立ったのです。約10年の月日が流れ、アブラハムとサラには、民族どころか、まだ子どももいませんでした。「もし神様がそうできたのであれば、なぜ神様は私たちに子どもを与えなかったのでしょう?」彼は不思議に思ったことでしょう。アブラハムは、たとえ約束についてすべて理解していなく、彼のすべての疑問が答えられなかったとしても、彼は神様を信用したので、彼は子孫を得るという約束を信じました。

約束を信じることは、待ちながら活動するということを要求します。約束のために待ちながらテントでの生活をしている間、彼のすべての人生は中断されました。言い訳をしたり、彼の兄弟や家族が住んでいて、何年も前に離れた土地であるメソポタミア(今でいうイラク)に帰ることはどんなにか簡単だったはずです。そこので生活は居心地が良かったことでしょう。

その約束にある彼の信用は、安全や居心地よさ、そして健康という普通の人生での目標よりも重要であったのです。彼は、神様の存在を信じ、宗教活動や善い行いを続けている間、その約束を疑うことができたでしょう。そして彼の信仰を続けれたでしょう。しかし、正義は与えられなかったことでしょう。

私たちの例

残りの聖書では、アブラハムが私たちの例として取り扱われています。神様からの約束の中のアブラハムの信用と、正義の手柄は、私たちのための見本であります。聖書では、神様は私たちすべてのものにも約束をしています。私たちもまた、その約束を信じるかどうか選ばなければいけません。

ここに、そのような約束の例えがあります。

神様を信じ、神様を受け入れるすべてのものへ、神様は、神の賜物になることへの正しさを与えました。彼らは生れ変ります。それは、男女間の愛情や計画からの結果生まれる身体的なものではなく、それは神様から来た誕生なのであります。(ジョン1章:12-13)

今日では、私たちは、アブラハムの約束が果たされたことを知っています。ユダヤ人が今日では、アブラハムから始まった民族の存在であるということは認めざるをえません。しかし、アブラハムのように、私たちは本当とは思えない、疑問を抱かせるような約束に出会います。アブラハムのように、私たちはこの約束を信じるか信じないかを選ぶのです。

誰が正義のために支払うのか?

アブラハムは、正義が贈り物として与えられたと表しています。あなたが贈り物を得るとき、あなたはそれに対して支払いをしません。さもなければ、それは贈り物とは言わないでしょう。その贈り物の贈り主が、支払うものなのです。正義を与えた神様こそが、正義のために支払うべきでしょう。どのようにして支払うのでしょう?次の記事でわかります。

名の知れない男との永遠の約束

世界中でスポーツや政治について今現在重要視されていることは、私たちが他の娯楽やスポーツでの優勝戦、政治等のイベントに移りゆくように、すぐに忘れられることでしょう。ある日の最も目立った出来事も、次には忘れられています。私たちは、アブラハムの古代に起きたことが本当であったという以前の記事に出会いました。4000年もの前に住んでいた人々の注目を得たとても大きなな業績や劇的な状況も、今では完全に忘れられています。しかし、以前の世の中

では完全に見落とされていたけれども、その約束は密かに個々に話され、今ではそれが大きくなり、その上私たちの目の前で明らかにされています。4000年前にアブラハムに約束された約束は、実現しました。おそらく神様は実在し、世界中で任務をなしているのでしょう。

アブラハムの訴え

創世記12章の中で記録されたその約束が話されてから、アブラハムの人生でいくつもの年が過ぎました。従順により、アブラハムは、今日ではイスラエルである、カナン(約束の地)に移動しました。しかし、この約束の中で実現されるという子孫の誕生は、起こりませんでした。なので、アブラハムは心配し始めました。

その時、神様の言葉がアブラハムに幻の中でで現れました。

「怖がらなくてもよい、アブラハム。私はあなたを守り、あなたを祝福します。」

しかしアブラハムは言いました。「君主である神様、私は未だに子どもに恵まれず、私の財産を相続するのは私の使用人であるエリザーであり、あなたは何ができるのでしょう?」そしてアブラハムはまた言いました。「あなたは私に一人も子どもを与えず、そして私の雇われ人である使用人が私の相続人になるのです。」

神様の約束

アブラハムは、約束された”偉大な民族”の始まりを待ちながら、その地でキャンプをしながら暮らしていました。しかし何も起こらず、そして彼は約85歳になりました。(彼がカナンに移動してから10年もの月日が経ちました)彼は、神様は自分の約束を果たしていないと訴えました。彼らの会話はこのように続きました。

そして神様の言葉が彼に届きました。「他の男があなたの子孫になることはないでしょう。しかし、あなたの子孫になる息子が必ず生まれるでしょう。」神様はアブラハムを外へ連れ出し、言いました。「空を見上げて、星を数えなさい。実に、もし数えられるのであればだが。」そして神様は言いました。「あなたの子孫はこの数えきれない星のように大勢になるだろう。」(創世記12章:4-5)

そして神様は、アブラハムが空に輝く星の数ほどの人数になるであろう民族を得るという約束を断言し,初めの約束を詳細に話しました。そしてこれらの人々は、今ではイスラエルである「約束の地」に与えられました。

アブラハムの返答:永遠に続く影響

アブラハムはどのように拡張された約束について返答したのでしょう。次に続く文章は、全聖書の中でもっとも大切な文章の中の一文として扱われているものです。それは、私たちにとって聖書を理解するのに役立ち、神様の心を表しています。それはこう続きます。

アブラハムは神様を信じ、そして彼は彼に正義を与えました。(創世記15章:6)

代名詞を名前で置き換えたら、理解しやすいでしょう。こうなります。

アブラハムは神様を信じ、そして神様はアブラハムに正義を与えました。(創世記15章:6)

それはとても短く、単純な文章です。しかしそれはとても大切な文章なのです。なぜでしょう?なぜならば、この短い文章には、アブラハムが「正義」を手に入れているからです。まさにこれなのです。神様に受け入れられる特質、これだけなのです。

私たちの問題の復習:堕落

神様の視点では、私たち人間は、神様をイメージして作られましたが、私たちを堕落させる何かが起こりました。聖書はこう言っています。

神様は、もしそこに誰か神様を理解するものや、神様を探し求めようとするものがいるかどうかを見るために、人々を天国から見下ろしました。私たちすべての人間は道を外れ、そしてすべての人間は堕落しています。そこには、誰もよいことをする人は、一人もいません。(詩篇14章:2-3)

この堕落は、空虚さや死という、何が良いことなのかをしない習慣を私たちに与えています。もしそのことを疑うのであれば、世界中のニュースのヘッドラインを調べ、この24時間以内に人々は何をしているのかを見てみてください。このことは、有徳な神様から離れているということを意味しているのです。なぜならば、私たちすべての人間は、みな正義を持っていないからです。

私たちにとってネズミの死骸が嫌悪感を起こさせるのと同じように、神様にとってこの堕落は嫌悪感を起こすものなのです。私たちは、その死骸に近寄りたくはないでしょう。そして聖書の中の預言者であるイザヤの言葉は本当になります。

私たちすべてのものは、汚れ、私たちの有徳な行動もネズミのように汚れるものとなるでしょう。私たちすべてのものは葉っぱのように枯れはて、風のように私たちの罪が、私たちを追い払うでしょう。(イザヤ64章:6)

アブラハムと正義

しかしここには、神様とアブラハムが交わした会話があり、そこには、たとえアブラハム自身は罪の少ない人ではなかったとしても、アブラハムが神様が受け入れたという種類の「正義」を手に入れたという宣言があります。しかし、罪のあるものとして、アブラハムはこの正義を得るために何を行ったのでしょう?それはとても単純で、「信じる」ことと言っています。それだけ!?私たちは何かをすることによって正義を得ようとしますが、この男アブラハムは、「信じること」それだけで正義を得たのです。

しかし「信じること」とはいったいどのようなことなのでしょうか?そしてそれは、あなたの正義や私の正義によって何を行うべきなのでしょうか?それは次の議題に続きます。

今日でもなお見られる古代の約束

たとえイスラエルは小さな国であっても、争いや中東との緊迫状態、戦争等の理由で、いつ もニュースで取り上げられています。それはなぜでしょう?聖書の創世記の本に書いてある イスラエルの歴史を調べると、今ではとてもよく知られている男が、世界のある場所にキャ ンプに行ったことを示しています。聖書は彼の物語が私たちの未来に影響していると教えて います。

アブラハムとの約束

神様はアブラハムと約束をしました。

「私はあなたに素晴らしい民族を作るでしょう。そして私はあなたを祝福するでしょう。

私はあなたの名前を有名にし、そしてあなたは神の賜物になるでしょう。

私はあなたを祝福する人々を祝福し、そしてあなたを呪う誰もを私は呪うでしょう。

そして地球の人々はあなたを通して祝福されるでしょう。」(創世記12:2-3)

アブラハムの名前は有名になる

私たちのほとんどは、神様が存在するのか、そしてそれは本当に聖書のなかの神様なのかと疑 問に思います。聖書では、神様が「私はあなたの名前を有名にするでしょう。」と言ってお り、そして今日ではアブラハムの名前は世界中で知られています。その約束は本当に果たされ ました。死海で見つけられた一番最初の創世記は、紀元前100年から200年と記されてお り、それはその時からその約束は書かれているということを示しています。その当時はアブラ ハムの名前はよく知られていなかったので、その約束が果たされたのは、最初の創世記が書か れた後であり、それ以前ではないということを示しています。

アブラハムの偉大な民族の意味

驚くことに、アブラハムは、彼の人生の中で注目すべきことを何一つしませんでした。彼は、素晴らしい作家でもなく、王様でも発明家でも、軍隊の指導者でもありませんでした。彼は、指示されたところでのキャンプをしたことと、子どもをもうけたこと以外、何もしませんでし た。彼の名前が偉大なのは、その子どもたちが、彼の歴史をつなぐ民族になったからだけなの です。そして彼からできた個々や民族は、偉大になりました。このことは、まさしく創世記12章「私はあなたに素晴らしい民族を作るでしょう。私はあなたの名前を偉大にするでしょ う。」で約束されたことなのです。すべての歴史の中で、人生において素晴らしいことを成し遂げた ことよりもむしろ、子孫のことで有名になったという人は、誰もいないでしょう。

約束者の意思を通して

アブラハムの系統を引くユダヤ人は、決して私たちが考えているような偉大な民族ではありま せんでした。彼らは、ローマ人が行ったように、広大な帝国を征服したり、エジプト人がピラ ミットを作ったように、偉大な遺跡を作ったりはしませんでした。彼らの名声は、彼らが書い た書物や憲法、何人かの注目すべきユダヤ人である人々、そして何千年もの間、多少異なった 人々のグループとしていきのびたことから成り立っています。彼らの偉大さは、彼らが行った ことではなく、何が彼らに行われたか、何が彼らを通して行われたかであります。その約束 は、「私は・・・するでしょう。」と何度も言っています。彼らの特有な約束は、ある能力や 克服、もしくは彼らの力ではなく、神様が起こしたにより起きたものなのです。

アブラハムとの約束は、彼が約束を信じ、そして「旅行者の少ない道」を選ぶことによって叶 いました。どれほどこの約束が果たされなかったことが起こりそうか考えてみてください。し かしそれは果たされ、何千年も前に明らかにされ、明らかにされ続けています。その実例は、その約束が約束者の権力と実力によって叶ったという、強いものなのです。

世界を振動させる旅

地図 - アブラハムの旅
地図 – アブラハムの旅

聖書は、「アブラハムは、神様が彼に伝えた通りに出発しました。」彼は、地図で示されてい るように旅を始め、それは今でも歴史を作っています。

私たちへの祝福

他にもまた約束されたことがあります。祝福は、アブラハムだけのためではありませんでし た。「すべての地球上の人々は、あなた(アブラハム)を通して祝福されるでしょう」と言わ れています。私たちは注意を払うべきです。なぜならば、あなたと私は、どのような宗教や肌 の色、生まれや人種、社会での地位、話す言葉に関わらず、その「地球上の人々」であるから です。祝福の約束は、今生きている私たちも含まれているのです!どのように?いつ?どのよ うな祝福なのでしょう?これははっきりとはされていませんが、しかし私たちは初めの約束が 叶ったことを知っています。そして私たちはこれからの約束も叶うということに自信を持つこ とができます。私たちは、次の論説の中のアブラハムの旅を追跡し続けることにより、この謎 を解くカギを見つけます。