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August 2016

最後のカウントダウン 最初の約束

私たちは、人類が最初に創造された状態からどのように堕落していったかを学びました。聖書は、神様が歴史の始まりに作られた約束に基づいて計画を立てたと私たちに伝えています。 聖書-それは図書館なのです まず初めに、聖書についていくつかの真実がここにあります。聖書はたくさんの本の集合であり、沢山の著者によって書かれています。それは、初めから終わりまで全て書かれるために1500年以上もかかりました。このことは、聖書が図書館であり、他の沢山の素晴らしい本とかけ離れていることを意味しています。もし聖書がたった一人の著者や、お互いを知り合っているグループの人々から書かれたものであれば、その結束性にそんなに驚くことはないでしょう。しかし、聖書の著者らは、100年、いや1000年もの年月の違うところからきているのです。これらの著者は、違う国々出身で言葉も違い、社会的地位も異なります。しかし彼らの伝言と予言は、お互いつながっており、歴史の真実は聖書の外で記録されています。一番古い旧約聖書(イエスが生まれる前の本)のコピーは、紀元前200年からもまだ存在しています。新約聖書のコピーの存在は、西暦125年からも後に記されています。 園での福音書の約束 私たちは、どう未来を予測するかを説明している聖書の始まりを知りました。それは始まりだけれども、精神の終わりを記しています。ここに私たちは、神様が人類の堕落をあげたすぐ後に、なぞなぞとともにサタン(大蛇に扮したもの)に向かい合った時の約束を知ります。 「そして私(神)は、あなた(サタン)とその女との間、そしてあなたの子孫と女の子孫の間に憎しみを作りあげます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打つでしょう。」(創世記3章15) あなたはこれが未来型(will)で書かれている予言だということに気づくでしょう。そこには5人の人物が触れられています。彼らは、 1;私=神様 2;あなた=大蛇、もしくはサタン 3;女 4;女の子孫 5;大蛇、もしくはサタンの子孫 その約束は、どうこれらの人物が未来で関係するのかを予言しています。これは以下で記されています。 それは、その女が誰であるかは言っていません。しかし神様は、サタンとその女が子孫を持つということを起こします。これらの子孫の間と、女とサタンの間に悪意と憎しみが存在するであろうとしています。女の子孫がサタンの頭を打つ間、サタンは女の子孫の頭を打つのです。 誰が「彼」という子孫なのか? 私たちはいくらか観測をし、そして今、結論を出そうとしています。なぜなら、女の子孫は「彼」であるので一部の可能性を取り払うことができます。その子孫が「彼女」という女性ではなく、「彼」であります。「彼」ということは、その子孫は人間であり、「それ」ではありません。その子孫は、哲学でも教えでも、政治の仕組みでも宗教でもありません。なぜならこれらはすべて、「それ」だからです。このような「それ」は、人々はいつも新しいシステムや宗教を考え出すので、堕落を修正するための私たちの好んだ選択になるものでした。神様は、心の中で、「彼」それは一人の男として考えられました。この男はサタンの頭を打つのでした。 言われていないことに気づいてください。神様は、この子孫が女からであり、男からであるとは言っていません。このことは、とてもまれです。なぜなら、聖書はほとんどいつも息子は父親からくると言っているからです。一部の人は、聖書は息子が父親からくると記録しているので、性差別的だと見ています。しかしこれは違います。ここには男からくる子孫とは約束されていません。それはただ、男からくるとは触れられず、女からその子孫はくると書かれています。 はるか後に予言者はその約束を付け加える 何百年もあと、旧約聖書の預言者は次のことを付け加えました。 神様自身はあなたにサインを与えるでしょう。見てください。乙女がみごもって男の子を産みます。その名はインマヌエル(神様は私たちのそばにいなさる、という意味)と名付けられるでしょう。(イザヤ7章14、紀元前750年) イザヤの700年以上も後、イエスは乙女から産まれました。(新約聖書による)イザヤの預言通りです。しかしイエスは人間の歴史の始まりとともにこんなに早く予言されているのでしょうか?このことは、その子孫が「彼女」でも「彼ら」でも「それ」でもない「彼」であることに当を得ています。その観点から、もしあなたがそのなぞなぞを読むと、納得できるでしょう。 「彼のかかとを打つ」?? しかし「サタンが彼のかかとを打つ」とはどういう意味なのでしょうか?1年間、私はカメルーンのジャングルで働いたことがあります。私たちは蒸し暑い中、厚いゴムでできたブーツをはかなければいけませんでした。なぜならば、蛇が長い草に横たわっていって、足を攻撃するからです。そして死にます。そのジャングルでの経験は、そのことを納得させました。その「彼」は、大蛇であるサタンを破滅さますが、彼はその過程で死にます。それは、勝利がイエスの犠牲を通して達することを予示しています。 「その女」-2つの意味 そして、もしこの初めの約束が、イエスに関することであれば、その女は、イエスを産んだ乙女の女ということになります。それは、マリアです。しかしそれには2つの意味があります。他の旧約聖書の予言がイスラエルについて言及していることに気づいてください。… Read More »最後のカウントダウン 最初の約束

堕落(2部)、、、そして的から外れる

聖書は、神様が私たちを作られた姿から、堕落を説明しています。これはどのようにして起こったのでしょうか?それは、聖書の創世記に記されています。神様の生き写しとして作られた、最初の人間(アダムとイブ)が作られた後すぐに、選択することによって試されました。聖書は、大蛇とともに、彼らの会話を表しています。その大蛇はいつも、神様の敵であるサタンのよき理解者として知られています。聖書では、サタンはいつも誰かを通じて話します。ここでは彼はその大蛇を通して話しています。 神様が造られた野生の生き物のうちで、大蛇が最も悪賢いのでありました。ある日大蛇は女に言いました。「園にあるどの木からもその実を取って食べるなと、本当に神様が言われたのですか?」 女は大蛇に言いました。「もちろん私たちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、食べることが許されてはいません。「これを取って食べたり、ましてやこれに触れてはいけません。もしそうしたら、あなたは死んでしまうでしょう。」と神様は言われました。」 大蛇は女に言いました。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神様のように善悪を知る者となることを、神様は知っておられるのです。」 その女は、説得させられました。彼女がその木を見ると、それは美しくおいしそうで、賢くなるには好ましいと思いました。そして彼女はその実を取って食べ、また共にいた夫にも与え、彼もまた食べたのです。その瞬間彼らの目は開き、急に裸でいることが恥ずかしく思えたのです。なので彼らは体を隠すためにいちじくの葉を縫いまといました。(創世記3章1-6) 彼らの選択(そして誘惑)は、「神様のようになれる」ということでした。ここまでは、彼らはすべてにおいて神様を信用しましたが、しかし今は、自分自身と自分で作りあげた神を信じるために、「神様のように」なることを選んだのです。 独立するための彼らの選択は、彼らを変えました。彼らは恥ずかしく思い、身をまとおうとしました。神様がアダムに向かい合った時、彼はイブ(そして神様が彼女を作られた)のせいにしました。彼女は大蛇のせいにしました。誰もその責任を取ろうとはしませんでした。 その日から何が始まったのか、それは続いています。なぜならば、私たちは自立した創造物を受け継いでいるからです。一部の人は、聖書を誤解し、私たちはアダムの間違った選択をとがめます。とがめられているのはアダムだけですが、私たちは彼の選択の結果の中に生きているのです。私たちは今、このアダムの自立した創造物を受け継いでいます。私たちは宇宙の神様になろうとは思っていないかもしれませんが、私たちの設定した神様になりたいのです。でもそれは、神様からかけ離れています。 このことは、人間の人生をとてもよく説明しています。私たちはドアに鍵をかけ、警察が必要で、パソコンにはパスワードがあります。それは、そうでもしないとお互い盗みあうからです。これが、なぜ社会はついに堕落するかなのです。なぜなら、文化は崩れ落ちる傾向にあるからです。これが、なぜ一部の人は他の人より一生懸命働いても、すべての政府や経済の組織が崩壊するのかなのです。 私たちがこうあることは、そうであるべきことを私たちから見落とさせるのです。 「見落とす」という言葉は、私たちの状況を要約しています。聖書の韻文からは、このことを理解するためのいい模倣があります。 このすべての兵士のうちに左ききの兵士が七百人いて、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。(士師記20章16) このことは、投石にたけている兵士は決して的を外すことはなかったと説明しています。ヘブライ語では、この「外す」という言葉を、חטאと翻訳しています。それは、旧約聖書では、「罪」とも翻訳されています。 兵士は石を使い、的を狙うためにそれを打ちます。もし彼が逃してしまえば、その目的を失ってしまいます。それと同じように、私たちはどのようにして神様に近づくか、そして他の人々を待遇するかという的を撃つために、神様の生き写しとして作られました。罪を犯すことは、その目的、そして的を外すということであり、それは私たちを意図しています。 的を外すということは、不幸せや楽天的ということではありません。人々は時々、罪においての聖書の教えに強く反対します。ある大学生が私に、「私は聖書を信じません、なぜなら、ここに書いてあることが好きではないからです。」と言いました。しかし、何か好きではないことを真実として行わなければならないことは何ですか?私は、税金や戦争、地震が好きではありません。誰もがそうです。しかしそのことは、それを嘘であるようにはしません。私たちはそれ全てを無視することができません。お互いから守るため社会に作られた全ての法律や警察、ドアの鍵、そしてセキュリティーは、何か間違っているということを暗示しています。少なくとも、私たちの罪における聖書の教えは、偏見なく考えられるべきなのです。 私たちには問題があります。私たちは初めに作られた時から堕落しており、道徳のある行いを逃しています。しかし神様は、私たちのこの無力から見捨てたりはしませんでした。彼は私たちを救う計画をし、なのでゴスペルとい意味は、文字通り「よい知らせ」という意味なのです。なぜなら、この計画は、神様が私たちを救うという良い知らせなのです。神様は、この知らせを公表するのにアブラハムまで待ちませんでした。彼はアダムとイブとの会話で初めの良い知らせを公表しています。私たちは次に、初めの良い知らせを知ります。

しかし堕落した、、中世の地球のように

以前私たちは、人々が神様の生き写しとして創造されたと聖書に書いてあることに出くわしました。このことは、なぜ人間の人生が貴重なものであるかを説明しています。しかし聖書は、重大な問題を説明するために、人類創造から引き続きます。その問題は、聖書の中の詩篇(歌)で見られます。 神様は、もしそこに誰か神を理解し神を探し求めるものがいるかを見るために、天国から人々を見下ろしました。すべての人々はわきへ逸れ、人々は堕落しました。そこには、たったひとりもいいことをする人がいなかったのです。(詩篇14章2-3) これは、私たち「全て」が「堕落」したと言っています。私たちは神様の生き写しとして作られましたが、何かが私たちの中で破壊したのです。堕落は、神様からの独立として選ばれた中(全ての人々は、神様を探し求めることから逸れました)に見られます。そしてそれはいいことをしていません。 エルフとオークを考える これを理解するために、映画ロード・オブ・ザ・リングのオークとエルフを見比べてみてください。オークは醜く、悪魔です。エルフは美しくて、平和的です(レゴラスを見てください)。しかしオークは、以前サウロンが過去に堕落したエルフだったのです。オークの中の最初のエルフの姿は、破壊されました。似たような形で、聖書は人々が堕落したと伝えています。神様はエルフを作りましたが、私たちはオークになったのです。 例えば私たちは、善悪の行動を知っています。しかし私たちは、何を知っているのかによって生きてはいません。それは、パソコンの正しい機能を破壊するウイルスと同じなのです。私たちの道徳的な規約はそこにあります。しかしウイルスがそれを汚染しているのです。これは、私たちが私たち自身を注意して見守ることに値します。しかしそれは質問を促しま す。なぜ神様は、このように私たちを創造したのでしょうか?私たちは、善悪がそこから堕落したことを知っています。無神論者のクリストファー・ヒッチンズはこう批判します。 もし神様が人々をそのような考え(堕落)から自由にしたかったのであれば、彼はもっと異なった人種を作りだすべきだっただろう。(クリストファー・ヒッチンズ ”神は偉大ではない;宗教がすべてを壊した”p100) しかし彼は何かとても大切なことを見逃しています。聖書は、神様がこのように私たちを作ったとはいっていなく、私たちが作られた後に、何か恐ろしいことが起こったのだといっています。初めに作られた人間が神様に背き、それによって彼らは変わり、堕落したのです。 人類の脱落 これは、よく「脱落」と呼ばれています。初めの人種であるアダムは、神様によって作られました。神様とアダムの間には、忠実な婚約のような契約がありました。そしてアダムはそれを破りました。聖書には、アダムが食べてはいけないと言われていたにもかかわらず、善悪を知る木からその実を食べたと書いてあります。その契約とその木自体は、アダムに神様に対して忠実のままでいるのかどうかという選択肢を与えました。アダムは、神様の生き写しとして創造され、神様との友情関係も置かれました。しかしアダムは彼の創造において選択肢はなかったので、神様はご自分との友情関係を選ぶことを許されました。それは、もし座ることができないから、立つことを選択するということが正しくはないのと同じです。(座ることができないから、残された選択である”立つ”ということを選ぶことは、そのほかに選択肢がないから選んでいるだけであって、決して正しい選択だとは言えないのです)アダムと神様との友情関係と信頼は、選ばれるべきだったのです。この選択は、一つの木から食べてはいけないという命令に集中しました。そしてアダムは背くことを選んだのです。アダムが背いたことは、私たちすべての世代を通してとめどなく続き、今日の私たちにもつながっています。それがどういうことなのか、次をみてみましょう。