機織りの女の子と牛飼いの物語(七夕として祝われている)はとても有名です。私がこの物語を聞いた時、福音書ととても似ているところがあると思いました。しかし福音書では、1年に1回という特別な日だけに愛するもの同士が再会できるということではなく、歴史の中の特別な日のため、愛するもの同士はいつも一緒にいることができます。
福音書はとても古い物語で、人々の歴史の始まりからであり、そしてそれは聖書の中で見ることができます。それは古代のもので世界的な物語でありますが、日本人の多くにはあまり馴染みがありません。似ているものと比べることで、物語を学ぶのに役立ちます。それを心にとどめ、織姫と彦星の物語を通して福音書を見てみましょう。
機織りの女のこと牛飼いの物語の要約
ウィキペディアにのっているこの馴染みのある物語を復習してみましょう。
昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。
福音書の織姫と彦星
聖書は福音書の教えに沢山のイメージを使っています。神様と人々との関係示すための重要なイメージは、こども達を親の関係です。
不満や言い争いをしないで全てのことをしなさい。そしたらあなたは潔白で清く、そして歪んで曲がった時代の中の罪のない神様の子になれるでしょう。(ピリピ人への手紙2章14-15)
私たちは神様の生き写しとして作られたので、神様は私たちを星のように輝く神様のこどもとして作りました。この観念では、私たちは、星と同じように輝く天帝の娘である織姫に似ています。聖書は、ここで見られるように、神様と私たちの関係を占める他のイメージをも使っています。
若い男が若い女と結ばれるように、あなたの子らはあなたと結ばれ、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。(イサヤ62章5)
織姫が彦星と恋をするために作られたように、人々は神様との愛を経験するために作られました。しかしこの愛は、特にイエスからであり、それは福音書の主人公なのです。彼は織姫を愛した彦星のようであり、イエスの愛はこのようだと言っています。
私はこう祈ります。あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活し、すべての聖徒と共に、そのキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するように。(エペソ人への手紙3章17-18)
イエス・キリストの愛はとても強いので、私たちにとって理解するのは難しいです。事実、夫と妻の愛をイメージして使われている聖書で記述されているイエスの愛なのです。
聖なる都、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見ました。(ヨハネの黙示録21章2)
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」(ヨハネの黙示録21章9)
聖書でのイエスの肩書の一つは、「子羊」です。なので、このことは、彼の愛に帰る人々(花嫁)と子羊(イエス)とのあいだの素晴らしい結婚なのです。その状況は、織姫と彦星の間の多大な愛にとても似ています。
福音書の中の悪い出来事
これらの詩は、福音書の物語の最後で意図された結果を示します。しかし、福音書は、私たちの現在の状況を違う形で記述しています。実際、聖書は、広大な天の川によって話された織姫と彦星のように、神様から話された私たちを描写しています。
私達は、わがままなことを行い、言うため、離されました。それはー罪、と言えます。聖書の中でそれは、悪いことを行い、言ったり考えたりする原因になつ堕落として記述されています。これは、神様の潔白から私たちを引き離します。罪の結果はこの詩によって説明されます。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てました。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのです。(イザヤ59章2)
私たちは、織姫と彦星がお互いから離されたように、私たちの愛する者から離されています。織姫と彦星は、もし仕事を一生懸命にやるのであれば、7月の7日に会うことができます。多くの人は、それは神様と同じだと思っています。もし一生懸命働き、十分にささげ、他の人々に寛大であれば、彼らは切り離された橋から十分な功績を得るであろうと望みます。
しかし、それはうまくいきません。聖書はこう言います。
われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。(イザヤ64章6)
誰のことを話しているのか、気づいてください。それは「全て」と言っていて、悪い人や教育のない人や外国人、と言ってるのではありません。聖書を書いたイザヤも、「私たちの」と言っており、彼自身を含んでいます。彼はとても知的でありましたが、彼の正義の行動(よい功績を稼ぐためのよい行い)は汚れていました。
神様と私たちの分離は、良い仕事をすることによって1日だけ橋を作るという織姫と彦星の分離よりも大きいのです。私たちにとって私たちと神様の分離を本当に受け入れることは難しいことです。この真実が沈むことは悲しい瞬間ですが、それは福音書の中で聖書がいっているの希望の物語に変化するこのポイントです。
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さりました。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないでしょう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるでしょう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのであります。(ローマ人への手紙5章6-8)
福音書は、そこでは終わらず、私たちにこのことを伝えることを続けました。
そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(コリント人への手紙1、15章4-5)
なぜ彼は死んだのか?
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。(ペテロの第一の手紙3章18)
イエスは金曜日に十字架の上で死にましたが、日曜日に再び生き返りました。彼は、私たちと神様の間の分離を埋めるためにそうしました。それは、彦星が死にかかり、織姫との分離を埋めるために再び生き返ったことに似ています。この架け橋は、1年に1回だけではなく、いつでもあるのです。福音書の結末は、聖書がこう言っています。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3-4)
七夕は、日本で織姫と彦星が合うことができる日として7月7日に祝われています。イエスが金曜日に十字架にかけられ、日曜日に生き返り、そして彼は土曜日の間に死として休息しました。それが1週間なのです。1週間が7日なのは、人間の歴史の始まりに作られました。なので1週間が7日であることは、全ての文化にあり、どの国でも使われているのです。人間の歴史の始まりの週で、イエスが彼の復活の前に死の休息をする時、神様は1週間の7番目の日(土曜日)の予言として7日目に休息したのです。この今でも休息の日とされている7番目の日は、1年のうち毎日開かれている神様との架け橋のしるしなのです。
織姫と彦星の話を通してみることは、福音書を理解するのに役立つでしょう。この二つの話の中で一つの大切な違いは、福音書は架空の話ではなく、歴史上の話なのです。イエスは本物の人間であり、生きて死に、エルサレムにあるそのお墓は空っぽであっただけでなく、人間の初めの歴史の中で、イエスの死を予言したアブラハムのいけにえや過越祭、イエスの死の詳細や復活が予言されたものという、重要な歴史の出来事を生き抜いたのです。
福音書は、この素晴らしいつながりをすべてのものに強制してはいません。それは、ギフトとして提供されています。織姫と彦星の話を学ぶことは価値があると私は思い、あなたが福音書を学ぶ機会になることを望んでいます。始めるのにふさわしいのは、「福音書はどうギフトであるのか」という項目から始めてみてください。ここから始めることは、あなたを人間の歴史のはじめに導き、年代的に続きます。それは結局、あなたのためのこの招待状と一緒に、素晴らしい結末の物語であるのです。
御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ。」また、聞く者も「きたりませ。」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。(ヨハネの黙示禄22章17)
理解する価値のあるお話です。