リチャード・ワームブランド、イヴァン・アーガント、ナタン・シャランスキーは、非武装の市民抗議運動家のユダヤ人の精神を代表しており、強力で権力を乱用する組織に異議を唱えてきました。彼らは率直さにより、批判している組織の標的となってしまいました。その点で彼らは、同じユダヤ人であるナザレのイエスの足跡をたどることとなりました。
信仰のために受けた拷問–リチャード・ワームブランド
リチャード・ワームブランド (1909-2001) はルーマニアのユダヤ人で、後にルター派の司祭となりました。ルーマニアが共産主義による無神論を徹底していた時代に、彼は聖書に基づいて、公然と教えを説いていました。当局は彼を1948年から1956年まで投獄し、そのうちの三年間は光のない地下穴で独房監禁されていました。釈放後、彼は地下教会の指導を再開しました。そこで当局は1959年から1964年にかけて彼を再び投獄し、頻繁に拷問をしました。彼の窮状を訴える国際的な運動により、当局は最終的に彼を欧米に釈放したのでした。
有罪判決による中止–イヴァン・アーガント
イヴァン・アーガント(1978年生まれ)は、「イブニング・アーガント」と呼ばれるロシア国営テレビで最も人気のある深夜トーク番組の司会を務めてました。彼は、 「ザ・トゥナイト・ショー」や 「ザ・レイト・ショー」などといったの有名なアメリカの深夜トーク番組の形式を模倣しました 。イヴァン・アーガント氏は2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻に抗議したことで有名になりました。彼は自身のインスタグラムアカウントに「戦争に反対」と投稿したのです。侵略に対して反対することは違法である国において、これは大胆かつ注目度の高い行動でした。その後、ロシアのチャンネルワンは彼の深夜番組を中止しました。そしてその後間もなく、イヴァンはロシアを離れ、イスラエルに現れ他のでした。
才能を理由に拒否された–ナタン・シャランスキー
物理学者、数学者、チェスの天才として知られるナタン・シャランスキー(1948年生まれ)は、ソ連で最も有名な『拒否された者』の一人となりました。それは、1960年代と1970年代にイスラエルへの出国ビザを拒否されたソ連系ユダヤ人のことを指します。ソ連当局は1973年、物理学の研究により国家機密にアクセスできるという口実でシャランスキーの出国ビザを拒否しました。その後、シャランスキーは1970年代にイスラエルへの移民許可を拒否されたすべてのソビエトユダヤ人のための公的活動家となりましたが、これはソビエト政権下では危険な行為でした。1977年にKGBに逮捕された彼は、当局によって刑務所や強制労働収容所を転々とさせられました。彼もまた、リチャード・ワームブランドのように、彼の苦境を訴えた国際運動に応じて、1986年にミハイル・ゴルバチョフによって解放されました。その後、シャランスキーはイスラエルに移住し、そこで政治家として成功を収めました。
完璧なタイミングで選ばれた–イエス
ナザレのイエスもまた、強力な官僚制度に対して大胆な抗議を行い、大きな危険を冒してでもこの活動主義の傾向を示しました。しかし、彼の行動のタイミングを計り、それを過去の時代を決定づけた出来事と結び付け、私たちに影響を与える将来の自由へと導く能力は、依然として比類のなきものです。私たちはイエスをユダヤ人の視点から見てきましたが、ここでは彼の抗議活動を検証し、その驚くべきタイミングとその意味を解き明かします。イエスをイスラエルと見なす説の具体な事例を検討した後、ここでそれについて考察していきます。
受難週の二日目、イエスは抗議活動をまったく新しい次元の抗議を行い、歴史を永遠に変えることとなる一連の出来事を引き起こしました。
日付の重要性
イエスは、 数百年前に預言されたまさにその日にエルサレムに入城し、自分がキリストであり、 諸国民への光であることを明らかにしました。その日は、ユダヤ暦ではニサン9日の日曜日、受難週の初日でした。トーラー(律法)の規定により、 翌日、ニサンの10日はユダヤ暦の特別な日でした。モーセはずっと昔から過越祭の準備の手順を定めていました。
1 さて、主はモーセとアロンに言いました。 2 「これから今月をユダヤの一月(太陽暦の三月中旬から四月中旬)とし、一年で最も重要な月とする。 3 イスラエル人全員にこう布告しなさい。毎年この月の十日に、家族ごとに子羊を一頭用意しなければならない。
出エジプト記 12:1-3
そのため、モーセ以来、毎年ニサン10の日になると、ユダヤ人の各家庭では、来たる過越祭のために子羊を選ぶことになりました。それはその日にしかできない事でした。イエスの時代、ユダヤ人はエルサレムの神殿で過越祭の子羊を選びました。この場所は、2000年前に神が息子を犠牲にすることで、アブラハムを試みた場所と同じ場所でした。現在、ここはユダヤ教の神殿の丘、イスラム教の アルアクサ・モスクと岩のドームのある場所となっています。
つまり、ユダヤ暦のある特定の日(ニサン10日)に、ある特定の場所(神殿の丘)で、ユダヤ人は各家庭ごとに過越の子羊を選びました。膨大な数の人や動物、物々交換の騒音、外国人との交流(ユダヤ人はさまざまな場所から来たため)により、ニサン10日の神殿は熱狂的な市場と化していました。福音書には、その日イエスが何をしたかが記録されています。ここで出てくる、「翌日」は、エルサレムにイエスが入城した日の翌日、つまりニサン10日、ユダヤ人が神殿で過越祭の子羊を選ぶ日です。
神殿の清め
12 翌朝、ベタニヤを出たイエスは、途中で空腹になられました。 13 ふと見ると、少し離れた所に、葉の茂ったいちじくの木があります。近づいて、実がなっているかどうかごらんになりました。ところが、その木は葉ばかりでした。まだ実のなる季節ではなかったからです。
14 それでイエスは、その木に向かって、「二度と実をつけることがないように」と言われました。弟子たちはこのことばを心にとめていました。
15 エルサレムに着くと、イエスは宮に入り、境内で商売をしていた者たちを追い出しにかかって、両替人の机や、鳩を売っていた者たちの台をひっくり返されました。 16 また、いろいろな荷物を持って境内を通り抜けることも、お許しになりませんでした。
17 そういう人たちに、イエスは、このように言われました。「聖書には、『わたしの家は、世界中の人たちの祈りの場所と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはここを強盗の巣にしてしまったのです。」
マルコの福音書 11:12-17
人間の次元では、イエスはニサン10日の月曜日に神殿に入り、商業主義を止めました。この売買取引は、特に非ユダヤ人の礼拝の障壁となっていました。そこで、諸国民の光であるイエスは、商業活動を停止することでこの障壁を打ち壊したのです。
選ばれた神の子羊
しかし、目に見えない何かも同時に起こりました。このことは、バプテスマ(洗礼者)のヨハネが以前にイエスに与えた称号から理解することができます。ヨハネはイエスに告げ知らせる際に、次のように言いました。
29 その翌日、ヨハネはイエスが来られるのを見て、言いました。「ごらんなさい。この方こそ、世の人々の罪を取り除く神の小羊です。
ヨハネの福音書 1:29
イエスは「神の子羊」でした。アブラハムの犠牲において 、イサクの代わりに藪の中で子羊を捕らえて選んだのは神でした。神殿も同じ場所にありました。
イエスがニサン10日に神殿に入ったとき、神は彼を過越祭の子羊として選んだのです。
イエスが選ばれるためには、まさにその日に神殿にいなければなりませんでした。そしてイエスが選ばれたのです。
過越の小羊としてのイエスの目的
なぜ彼は過越の子羊として選ばれたのでしょうか。その答えは、上記のイエスの教えが与えてくれました。「わたしの家はすべての国民のための祈りの家と呼ばれるでしょう」と彼はイザヤ書の言葉を引用して言いました。これが全文です。
6 また、神の民の仲間入りをしてわたしに仕え、わたしの名を愛し、わたしのしもべとなって安息日をきよく守り、わたしの契約を受け入れた外国人には、次のように約束する。 7 わたしは彼らをエルサレムにあるわたしの聖なる山へ連れて行き、わたしの祈りの家で喜ばせる。わたしは彼らのいけにえや供え物を受け入れる。わたしの神殿は『すべての民の祈りの家』と呼ばれるからだ。」
イザヤ書 56:6-7
イザヤが記した「聖なる山」は モリヤ山で、 アブラハムがイサクの代わりに神に選ばれた子羊を犠牲にした 場所です。「祈りの家」はニサン10日にイエスが入った神殿でした。神殿で生贄を捧げて過越祭を祝うことができたのはユダヤ人だけでした。しかしイザヤは、「外国人」(非ユダヤ人)もいつか「彼らの燔祭と生贄が受け入れられる」ことをになるだろうと書いていました。イエスは預言者イザヤの言葉を引用して、自分の働きかけにより、非ユダヤ人に神への道を開くだろうと宣言したのです。 その道は、ギリシャ人がイエスに会いたいと願った前日から開かれ始めていました。
世界中の国々が、ワームブランド、アーガント、シャランスキーのような著名なユダヤ人活動家の抗議に注目していました。イエスは、自分の仕事も同様に世界の国々の注目を集めることになるだろうと言いましたが、その方法については、この時点では説明していませんでした。しかし、福音の記述を読み続けていくと、神がどのように私たちを祝福する計画をしていたかが分かるでしょう。
受難週の翌日
ユダヤ人がニサン10日に子羊を選んだ後、トーラ(律法)の規定は次のように命じました。
6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
出エジプト記 12:6
モーセの時代の最初の過越祭以来 、ユダヤ人はニサン14日ごとに過越祭の子羊を犠牲にしています。私たちは、この週のスケジュールの中で、トーラの規定に「子羊の世話」を追加しています。このスケジュールのの下半分には、2日目のイエスの活動、つまり神殿の清めと神の過越の子羊として選ばれたことを追加しています。
当局によって注目され、選択される
イエスが神殿に入って清めたとき、人間の次元においても影響を与えました。福音は続けて次のように述べています。
18 こうしたイエスの言動を耳にした祭司長やユダヤ人の指導者たちは、どうすれば首尾よくイエスを始末できるかと、相談を始めました。人々がみなイエスの教えに夢中になっていたので、へたに動いて暴動でも起きたら、それこそ一大事と考えたからです。
マルコの福音書 11:18
神殿を清める際に、ユダヤ人の指導者たちは彼を死刑にしようとしていました。ワームブランド、アーガント、シャランスキーが抗議活動を行った指導者らの標的となったように、イエスはこの時から注目される人物だったのです。
彼らはまず、彼と対峙することから始めました。福音書は翌日のことが記されています。
26-28 行は、またエルサレムにやって来ました。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長やユダヤ人の指導者たちが近づいて、「ここで何をしているのか。いったいだれがあなたに、商人たちを追い出す権利を与えたのか」と責めました。
マルコの福音書 11:26-28
私たちは、次に当局の計画、イエスの行動、そして受難週三日目の火曜日の律法の規定を見ていきます。