ブッダの基本的な洞察の1つは、プラティチャサムットパーダ(サンスクリット語: प्रतीत्यसमुत्पाद、パーリ語: paṭiccasamuppāda ) の洞察でした。これは、すべての現象は以前起こった他の現象から生じるというものです。私たちが観察するものはすべて、先立って起こった原因から生じています。この洞察は、四諦の中で、業(カルマ)と輪廻を説明するために広がっています。
私たちは、アジア全域に共通する特徴を使用し、発生する現象の中で得られた洞察を利用することによって、自分自身についての洞察を得ることができます。各地に建てられた美しい仏像の数々を見てみましょう。
これらの、石の彫刻や青銅の金属細工で造られた仏像のような、美しい芸術作品から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか?
仏像の多様性についての考察
仏像の大きさと寿命は、優れた工学知識と冶金技術によって造られたことを表しています。これらの仏像を制作したのは、技術的なノウハウを持つ職人であると同時に芸術家でもありました。
また、仏像がムドラー、つまり手のしぐさを通じて象徴的なメッセージを伝えていることもわかります。仏像を建てた芸術家や職人たちは、これらの作品を鑑賞する人たちへのメッセージを刻みました。仏像を鑑賞しに来る人は、これらのムドラーを受け取り、理解します。作り手も見る人も、シンボルを使ってメッセージを送受信する生来の能力、さらには本能を持っています。
また、仏像の芸術的な美しさは、世界中の人々を魅了し、単純にそれらを鑑賞して、称賛するために訪れている人がいることもわかります。私たちはこれらの仏像を作ったわけではありませんが、魅力的だと感じることでしょう。芸術的、技術的成果を称賛するためだけに来る人もいれば、ムドラーの持つ意味について瞑想する人もいるのです。
また宗教的な崇拝のために来る人もいます。これらの像はブッダを表しているため、ブッダの信者でない人であっても尊敬と畏怖の念を呼び起こします。
人類についての疑問を引き起こす…
私たちは、これらすべてを、仏像自体の中で、それを鑑賞する他の人々の中で、そして私たち自身の中でも観察することができます。すべての現象は前の現象から生じるという プラティチャサムットパーダの洞察は、「次の現象はどこから来るのか?」という疑問を投げかけます。
- 芸術(仏像)を創造すると同時に、芸術(仏像を崇拝する私たち)に価値を見出すという人間の本能。
- 特定の目的のために、技術的な理解を必要とするこれらの仏像のような構造物の作成に集中する人間の能力。
- 仏像のムドラーに見られるように、象徴的なメッセージを理解し、送信し、受信する生まれ持った能力。
- 多くの信者の心、魂、精神に敬意を呼び起こす、これらの仏像が成徳的に持つ能力。
これらの現象が一貫して現れるためには、人々の内部にはどのような先行原因が存在するのでしょうか? 人間は一貫してこれらの特性(および類似の特性)を持っています。これらは単に生存や苦しみを回避することを目的としているだけではありません。西洋における進化の理論に基づく説明でも、人間の芸術的で神秘的な性質を完全に説明することは困難です。同様に、東洋の執着から生じる無知に基づく説明だけでも、これらの性質を十分に説明することは困難です。
古代ヘブライ語聖書からの答え
世界で最も古い文書の中に、これらの人間の特徴を簡単に説明しているものがあります。それはなぜあなたはここにいるのか、そして何の目的でここにいるのかを説明しています。それは人類の歴史の初めに、パーリ語やサンスクリット語よりも古い言語で書かれました。そしてその起源は、古い歴史を持つという点で中国語に匹敵します。ヘブライ人というある特有の民族がこれらの文書を作成、保存し、壮大な物語を形成しました。
この著作集は、一般に聖書と呼ばれる1冊のわかりやすい本にまとめられています。聖書はどのように叙事詩を始めるのでしょうか? あなたが誰であるかをどのように明らかにしているのでしょうか?聖書は単純に次のような言葉で始まります。
1 まだ何もなかった時、神は天と地を造りました
創世記 1:1
数文後に聖書はこう述べています。
26 そして最後に、神はこう言われました。「さあ、人間を造ろう。地と空と海のあらゆる生き物、家畜動物、野生動物そして地面を這う生き物すべてを支配させるために、われわれに最も近い、われわれのかたちに似せて人間を造ろう。」
27 このように人間は、天地を造った神の特性を持つ者として、男と女とに創造されました。
創世記 1:26-27
「神の似姿で」
創造主である神が人類を「神のかたちに」創造したとはどういう意味でしょうか? それは、神が二本の腕や頭などを持つ肉体的な存在であるという意味ではありません。むしろ、より深いレベルで、人間の基本的な特性は神と同様の特性から生じることを意味しています。すなわち、プラティチャサムットパーダの原則を私たちに適用します。したがって、たとえば、創造主である神(聖書の中の)と人間(観察によると)は両方とも知性、感情、意志を持っています。聖書では神は、私たち人間が経験するのと同じように、時に悲しみ、傷つき、怒り、または喜ぶと描かれています。そして私たちが日々、選択や決断を行っているのと同じように、聖書における神は選択をし、決断を下します。私たちの推論し、抽象的に考える能力は神から授けられたものです。私たちが知性、感情、意志の能力を持っているのは、神がそれらを備えており、神が私たちを神の似姿に創造されたからなのです。
私たちは何不自由なく、自分が、自己認識し、「私」と「あなた」の意識を持つ、知覚的存在であると理解しています。私たちは、非個人的な「それ」ではありません。聖書は、私たちがこのような存在であるのは、神が人格的であり、私たちが神の似姿に造られたからだと教えています。
私たちの中にあるアーティストの誕生
また、私たちは生来、前述の仏像のような芸術を創造し、鑑賞することもできます。人々は自然に美しさを称賛し、それを必要とさえします。仏像の芸術を称賛するのと同じように、私たちは雄大な山々、感動的な夕日、蓮の色など、美しい世界にも称賛します。聖書は、神が世界の創造者として、山々、沈む太陽、そして蓮を造られたと説明しています。神はそれらを機能させるためにだけでなく、美しい芸術としても作りました。私たちは神の似姿に造られたので、これらの芸術を高く評価します。また私たちが仏像のような芸術を創作するのも、私たちは神の似姿に創造された結果、神の持つ能力を自然に備えているからです。これは、音楽や文学などの芸術形式を含む単なる視覚芸術にとどまりません。私たちにとって音楽がどれほど重要であるか、さらにはダンスへの愛がどれほどのものであるかを考えてみましょう。音楽は私たちの生活を豊かにしてくれます。私たちは、小説でも演劇でも、今日では一般的に映画でも、素晴らしい物語を好みます。物語にはヒーロー、悪役、ドラマがあり、よくできた物語はこれらのヒーロー、悪役、ドラマを私たちの想像力に焼き付けます。したがって、私たちが芸術をさまざまな形で利用したり鑑賞したりするのは自然なことです。神は芸術家であり、私たちは神の似姿であるため、私たちは芸術で自らを楽しませ、活気づけ、リフレッシュさせます。
芸術、演劇、音楽、ダンス、文学などにおいて、私たちはなぜ自然に美的になるのでしょうか? これはとても価値のある疑問です。率直な無神論者であり、認知科学の権威であるダニエル・デネットは、唯物論的な観点から次のように答えています。
「しかし、この研究のほとんどは依然として音楽を当然のことと考えています。「なぜ音楽は存在するのか?」と問うことはめったにありません。短い答えはありますが、今のところそれが真実です。音楽は、私たちが愛しているから存在しており、それゆえに私たちはさらに多くのものを存在させ続けています。しかし、なぜ私たちは音楽を愛するのでしょうか?それは私たちは音楽が美しいと感じるからです。しかし、なぜ音楽が私たちにとって美しいのでしょうか?これは生物学的には非常に良い質問ですが、まだ良い答えはありません。」
ダニエル・デネット。2006. 呪縛を解く: 自然現象としての宗教。P. 43
人間に対する唯物論的な見方には、人間の本性に関するこの根本的な疑問に対する答えはありません。聖書の観点から見ると、それは神が芸術的で美的だからです。神は物事を美しくし、美を楽しみました。それは神に似せて造られた私たちも同じなのです。
数学の美しさ
審美的な美しさと密接に関係しているのは数学です。幾何学的な比率からなるパターンは、フラクタルやその他の形状を生み出し、私たちは美しく、数学的に優雅であると感じます。マンデルブロ集合の優雅さを説明するこのビデオを見て、なぜ数値などの抽象的な概念が宇宙の挙動を支配しているように見えるのか、そしてなぜ私たちがそれらの美しさを称賛するのかについて質問してみてください。
なぜ私たちは道徳的なのか
さらに、「神の似姿に造られた」ということは、あらゆる文化に共通する私たちの自然な道徳的能力を説明しています。このことは、八正道の道徳的智慧の中にはっきりと見られます。創造主である神は、善と公平を深く気にかけています。したがって、磁北に合わせたコンパスと同様に、私たちの「公正」、「良い」、「正しい」への調整は神の調整に従います。このように作られているのは宗教者だけではなく、誰もがそうであるのです。これを認識していないと、誤解が生じる可能性があります。唯物論者のアメリカ人サム・ハリスの以下の議論を例に考えてみましょう。
「宗教的信仰が道徳の唯一の本当の基盤であると信じるのが正しいなら、無神論者は信者よりも道徳的ではないはずだ。」
サム・ハリス。2005年。キリスト教国家への手紙。P. 38-39
ハリスのこの考えは、ここでは間違っています。私たちの道徳観は、宗教的であることによってではなく、私たちの中にある神のイメージから来ています。これが、無神論者が他の私たちと同じように道徳的感覚を持ち、道徳的に行動できる理由です。無神論の難しさは、なぜ私たちが道徳を持っているのかを説明することです。しかし、神の道徳観に従って創造されたということは、この議論について簡潔で明快な説明をしてくれます。
私たちが相対関係である理由
聖書によれば、自分自身を知る出発点は、神の似姿を担う者としての自分の立場を認識することから始まります。したがって、神(聖書を通して)または人々(観察を通して)のどちらかについて洞察を得ることで、もう一方についても理解を深めることができます。たとえば、人々が人間関係を重視していることを考えてみましょう。良い映画を見るのもいいですが、友人や家族と一緒に見るとさらに良い経験になります。私たちは自然に経験を共有する仲間を探しているのです。意義のある友情や家族関係は、私たちの幸福感の重要な要素です。逆に、孤独や家族関係の亀裂、友情の崩壊はストレスを引き起こす傾向があります。私たちは他人との関係性によって、中立で動じない存在ではいられないのです。インド映画が人気であるのは、恋人や家族間などの、登場人物同士の関係性を強調しているからなのです。
創造主なる神は愛です
さて、もし私たちが神の似姿であるなら、私たちはこのように同じような神との関係性を強調しようとするでしょう。実際、私たちはそうしているのです。聖書には次のように書かれています。
8 …なぜなら神は愛だからです。
ヨハネの手紙Ⅰ 4:8
聖書は、聖書は神への愛と他者への愛の重要性について多く教えています。実際、イエスは、これら2つの関係を強化することが聖書の中で最も重要な2つの命令であると説いています。考えてみると、愛は相対的なものでなければなりません。愛する人と、その愛の対象となる人(愛される人)が必要だからです。
したがって、私たちは創造主である神を愛する人として考える必要があります。私たちが神を「主動者」、「第一起因」、「全知の神」、「慈悲深い存在」、あるいはおそらく「ブッダの意識」としてのみ考えるなら、私たちは聖書に書かれている神のことを考えていることにはなりません。神は前述したような称号ですが、聖書は神を人間関係において非常に情熱的な人物として描いています。神は愛を「持っている」のではなく、むしろ愛「そのものである」のです。聖書における、神と人々の関係に関する最も顕著な二つのイメージは、子供と父親、妻と夫の関係です。これらは冷静に哲学的な「第一起因」のたとえではなく、むしろ最も深く最も親密な人間関係を表しています。
ヘブライ語の基礎を築く
この図は私たちがこれまでに築いた基礎を表しています。人は神の似姿に造られ、心、感情、意志から成り立っています。私たちは知覚力があり、自己を認識しています。人々は道徳的な存在であり、「道徳観」によって「正しい」と「公平」という生得的な志向が与えられます。私たちは、あらゆる形の美、ドラマ、芸術、物語を発展させ、鑑賞する本能的な能力を持っています。私たちはまた、自然に他者との関係を求め、発展させます。私たちがこれらの特質を持っているのは、神がそれらを体現しており、私たちが神の似姿に創造されたからです。
仏像はブッダの姿を表現しているため、非常に価値があり、興味深いものです。像の本質的な価値は、その像が何で構成されているかによって決まります。オレンジの像はその共通性からあまり価値がありませんが、ブッダ自身がユニークで貴重であったため、人々はブッダの像を崇拝するのです。したがって、仏像は他の人の像よりも大きな価値を持ちます。なぜなら、仏像は本質的に他のものよりも貴重な存在であるからです。
同様に、私たちは神の似姿の中にいる(他の似姿ではない)ので、非常に価値があります。私たちは、富、年齢、学歴、社会的地位、言語、性別に関係なく、ただ「神の似姿である」というだけの理由で、価値と尊厳を持っています。神はこのことを知っていて、私たちにもそれを理解してほしいと望んでいます。
しかし、もしそうだとしたら、なぜ私たちの世界は終わりのない苦しみと死のサイクルで満ちているのでしょうか?聖書の物語は、これがどのようにして起こったかを説明し続けています。